Archive for 2013.3

自分の体という道具

2013.3.11

1月、2月とキツめの運動をしたらヘルペスが出てきてしまったので、軽めの運動に切り替えていたのだが、ここんところ暖かく「大丈夫かな」と思ってキツめにやってみたら三ヶ月連続のヘルペス……こりゃあ、体の構造を変えないといかんな。
 
筋肉痛はほとんど出ていないのに、神経系や免疫系に関わるものが出ているのだから、そこら辺と(体と)相談する必要があるな。24、5歳の辺りに、筋肉の質が変わったような気がしてストレッチをするようになったのと同じように、徐々に変化するものが内部になっている。
 
子どもの頃に「なぜ人は死ぬの?」という疑問を持つ前に、「人は死ぬもの」「死んだら何も出来ない(干渉出来ない)」と気付き、理解してしまったが故に、自分の体というのも物質や道具として考えている節がある。その他の道具のように愛着がある。取り替えは利かない。二元論のように精神と分けることは出来ない。しかし、道具だ。
 
セルフポートレートと呼ばれるような写真があっても、身近にある人間の体をした被写体として使っている。映画やドラマで俳優の卵をバミリ用のモデルとして使用するように、人を撮る作品のラフには自分を使うことが多い。バミリ用だとしても本気で輝いて見えるときは作品に登場するように、ラフで始めたことが作品に登場することがある、その程度のことなのだ。

基底となるもの

2013.3.10

『欧文組版 組版の基礎とマナー』(著:高岡昌生)を読んでいたら「タイポグラフィは思いやり」という言葉が出てきて、とても良いなと思った。最近の話に出している愛や慈しみを平たく言えば、「思いやり」だ。思いやりを持つと、色々なことが気になって、それが良い方向に進むと「基礎力の大切さ」に気付く。
 
僕はよく「必要なのは人間力」とか、「人間の話をしよう」、「あなたの考えが聞きたい」と言うが、これらは基礎力がなければ話すことが出来ない。応用が利かないか、会話にならないからだ。しかし、どんな職業の人でも基礎力がある方なら、仕事の内容よりも先に、人間の大切さに気付いてるため、人間の話をしてから仕事の話をする。もしくは、全くの門外漢であれば軽く職業の話に触れてから、その人の特徴を掴み、人間の話に繋げてから、詳しい仕事の話に入っていく。いずれにせよ、仕事の前提にあるのは人間の話である。
 
なんかね、どこもかしこも近年は専門的な話が多いような気がするんです。それって身内だけで話を進めているということでしょう。島国だからって、話す内容や相手も閉じていく必要はないはずだ。

人情がない時代

2013.3.9

昨日の話を平たく言うと、「人情」が大事ということだ。人情があれば人のためにも自分のためにも頑張れるし、頑張れば自ずと技術がついてくる。技術があれば仕事になるし、仕事があれば職業になり、職業があれば業界ができる。
 
現在、衰退している業界があるのならば、それは人情がなくなっているからだ。友が友のために祭りを呼びかけ、僕達はそんな友のために一肌脱ぐ。だから作品の話から自分の話をし、それらを踏まえて業界と自分の役割の話をして、希望(愛)があることを伝える。皆が優しいことはわかった。でも、自分の話で終らせてしまっては、何のために友が友のために一肌脱ぎ、そこに自分たちが盛り上げる役目として必要とされたのか。媚を売るのではない、開き直るのではない、もっと正直に話してくれ。答えが見出せないほど、みんな馬鹿じゃないはずだ。

歴史の先端

2013.3.8

記録されているものでは人間は洞窟壁画を描いていた。それ以前も何かしら作っていただろう。その後、何千、何万年の歳月を経て、歴史の最先端にいる僕らも変わらずに何かを作り続けている。
 
そうまでして僕らが手に入れたものとは何だろうか? 僕個人として言えば、温かくて、まぁるい、ふわふわしたものだ。そんな心地や気持ちとも言える。その先はない。
 
そんな心地を喩えると、母や祖母だ。みんな幸せであって欲しいと思う。みんなというのは、みんなだ。
 
江戸時代に侍として剣に生きるように、この時代で写真に生き、藝術に生きることがどれだけ時代錯誤か。それでも1つの、誰でも心の奥に在るものに正直になればわかる話だ。慈しむ気持ち、愛する気持ち、そういうものだったのだ。
 
このことに気付いてから随分な時間が経ち、文字も作品も残した。これから僕は何をしようか。何もする必要がないのかもしれない。

匿名性と秘匿性

2013.3.7

匿名性と秘匿性を勘違いしている人が多いような気がしている。特に仕事をしている場合には秘匿性は必要だが、匿名性は低い方が良いと考えている。それは、「誰がどのような考えを持って話し、動いているのか」が他者に影響を与える要因になるからだ。
 
顔を隠してしまえば、その話は複数人の総体なのか分かり難く、隠れ蓑に身を隠すことが出来てしまうという不安感を相手に抱かせる。背景が分からなければ、架空に作りだされた相手かもしれない。人は会話をする際、目の前にいる人が話をしていることに安心感と信頼感を得やすいものだ。
 
それは話し手も同じで、隠れ蓑の良い例として、日本ではマスメディアで報道している情報源を明かさないが、こんな状況は単なるパクリだ。似たようなことが個人においても生じている。「マス=権威、安心」という馬鹿げた刷り込みがあることを忘れて、名前を明かさず、顔を明かさず、背景を明かさず、どこの誰かわからんような人達が批評家気取りの罵詈雑言を吐く。もしくは反対に、何でもかんでも開けっ広げで、食べている物や眠る瞬間まで発信し、挙句の果てに人のことまで口を漏らす。
 
それもこれも、自分に自信がないことが原因だと思うんだけどね。
 
つまり、匿名性を高めれば伝えたい内容は相手に伝わり難くなるのは当然として、昨日書いたように、自信がなく正面から話すこともしないのだから「裏切るかもしれない」と相手に不安感を抱かせる。そんな人が影響力を持って仕事が広がっていく訳がないと思うんですが、なぜ、匿名であろうとするんだろうか。
 
一方、秘匿性を高めるのは、情報を整理して伝えたい内容を伝えやすくするためと、無益に人を傷つけない理由がある。肖像写真をやるに当り、僕は匿名性と秘匿性の違いをとても考慮している。制作においては話すことが出来る。『ギフト』シリーズや『観』シリーズだったり、『Flow』シリーズの技法や、焼き込みやトーン調整で制作されたり、それらを組み合わせたりして新たな発見があったりと僕の普段の制作技法と何ら変わらない。しかし、そこで行われるのは完全秘匿を約束とした、お相手の身の上を聴き、会話をし、僕が同調してはじめて制作される。完成後にはラフさえもシュレッダーを通してから焼き捨てる場合があり、それでも僕は自分が誰で、どんな考えや背景を持っているかを正直に話す。そうまでして相手が僕のことを写真家として信頼してくれて制作され得る作品があるのだ。発表することも話を広めることもしないことで得られる感動の涙、言葉――僕はこのために動いている。
 
マスから離れれば名声からも遠くなるが、そんなものはいらないんだよ。僕は写真家として、藝術家として、人間として生きているんだから。