匿名性と秘匿性
2013.3.7日々のこと匿名性と秘匿性を勘違いしている人が多いような気がしている。特に仕事をしている場合には秘匿性は必要だが、匿名性は低い方が良いと考えている。それは、「誰がどのような考えを持って話し、動いているのか」が他者に影響を与える要因になるからだ。
顔を隠してしまえば、その話は複数人の総体なのか分かり難く、隠れ蓑に身を隠すことが出来てしまうという不安感を相手に抱かせる。背景が分からなければ、架空に作りだされた相手かもしれない。人は会話をする際、目の前にいる人が話をしていることに安心感と信頼感を得やすいものだ。
それは話し手も同じで、隠れ蓑の良い例として、日本ではマスメディアで報道している情報源を明かさないが、こんな状況は単なるパクリだ。似たようなことが個人においても生じている。「マス=権威、安心」という馬鹿げた刷り込みがあることを忘れて、名前を明かさず、顔を明かさず、背景を明かさず、どこの誰かわからんような人達が批評家気取りの罵詈雑言を吐く。もしくは反対に、何でもかんでも開けっ広げで、食べている物や眠る瞬間まで発信し、挙句の果てに人のことまで口を漏らす。
それもこれも、自分に自信がないことが原因だと思うんだけどね。
つまり、匿名性を高めれば伝えたい内容は相手に伝わり難くなるのは当然として、昨日書いたように、自信がなく正面から話すこともしないのだから「裏切るかもしれない」と相手に不安感を抱かせる。そんな人が影響力を持って仕事が広がっていく訳がないと思うんですが、なぜ、匿名であろうとするんだろうか。
一方、秘匿性を高めるのは、情報を整理して伝えたい内容を伝えやすくするためと、無益に人を傷つけない理由がある。肖像写真をやるに当り、僕は匿名性と秘匿性の違いをとても考慮している。制作においては話すことが出来る。『ギフト』シリーズや『観』シリーズだったり、『Flow』シリーズの技法や、焼き込みやトーン調整で制作されたり、それらを組み合わせたりして新たな発見があったりと僕の普段の制作技法と何ら変わらない。しかし、そこで行われるのは完全秘匿を約束とした、お相手の身の上を聴き、会話をし、僕が同調してはじめて制作される。完成後にはラフさえもシュレッダーを通してから焼き捨てる場合があり、それでも僕は自分が誰で、どんな考えや背景を持っているかを正直に話す。そうまでして相手が僕のことを写真家として信頼してくれて制作され得る作品があるのだ。発表することも話を広めることもしないことで得られる感動の涙、言葉――僕はこのために動いている。
マスから離れれば名声からも遠くなるが、そんなものはいらないんだよ。僕は写真家として、藝術家として、人間として生きているんだから。