Archive for 2013.2

国の問題=人の問題

2013.2.5

この国の文化レベルはいったいどこに向かっているのか? アーティストやギャラリー関係者逮捕の知らせを受けて、容疑内容が分からなかったので少し調べてみたら、ギャラリーで販売されていたものに対しての容疑とのこと。
 
百歩譲って、どんなものでも猥褻としか感じることが出来ない人がいたとしても、販売されていた場所の性質やレベルのことはわかるだろう。コンビニやスーパーで並んでいたわけではない。通報するのもそうだが、それを容疑内容にするのも、判断が幼稚すぎないだろうか。
 
相撲やボクシング、ヒーロー映画は暴力か? 否、前者はスポーツであるし、後者はエンターテイメントだ。何かね、そういうことだと思うんです。
 
国の文化レベルが低いということは、その国にいる人の文化レベルが低いということだ。これほど悲しいことはない。再び社会と藝術の溝が深まった瞬間であるし、全て人間の問題である。

いつも話していること

2013.2.4

ウィリアム・モリスさんの『民衆の芸術』。1879年の同講演を記録したものであり、文庫本でたった30ページ足らずの本である。
 
始めに断っておくと、この本に僕がいつも話していることが詰まっている。そして、現代日本の社会状況、経済状況、大衆意識も書かれている。氏は同講演でイギリスを取り上げているが、この内容を思い返すと当時のイギリスをなぞったような質の低下を約130年後の日本が行っていることに、憤りを通り越して悲しみを含んだ呆れを感じざるを得ない。
 
氏の話す大衆における正義感の欠如と奢侈の欲望、少数における芸術の宮殿への籠城——僕の言葉では大衆における公正さの欠如と不適切な形、少数における専門家の専門家のための言葉、見せ方——そういったものが巡りに巡って、自分たちを苦しめることとなり、全ては繋がっている1つのものであるのだから、苦しみを打破するのは、どこかで1つの突破口を見出せば良いだけのことである。
 
ずるをしない——ただこれだけのことで全ての苦しみを打破できる。そして、職業など関係なく、多くの人達に喜びや楽しさの種を植えることができること、それが「藝術」だと信じている。喜びの種を植えることが出来るのはアートの専門家だけではなく、全ての人が出来ることだ。
 
しかし、そのような社会をつくる道は極めて困難であり、享楽のために私腹を肥やしながら安価を求める大衆と、諦めた果てに専門家だけを相手にする少数の内の少数(現代では我々の方が少数の少数になっているが)を連日相手にしていると、やはり心が折れそうになることもある。
 
諦め切れないのは、作品をつくり、良い動きができ、喜びや楽しさで満たされた時に感じる本当の自由、開放感、幸福感こそが最期の瞬間を笑顔で向かえられる術だと思うからだ。

賢くなったので結果オーライ

2013.2.3

とある「休暇」を経たら頭も体も軽く、掃除や運動の後に勢いが止まらなかったので、作業場の窓を覆っていた黒布を剥がして開閉が出来るようにしました。
 
剥がした布の太陽が当たっていた面がちょうど良く焼けていて、「これは見せるように使えるな」と意気高揚。ただ、埃も付いてるだろうからこのまま使用するのは憚られるので、洗濯をしたらこれがマズかった……見事にボロになり見るも無惨な姿に。
 
そうだよねぇ、焼けたら変わるのは色だけでなく、繊維も弱くなっているよねぇ。一つ勉強になりました。
 
生成り〜ベージュあたりの日光が透ける布ないかな〜。

考え方が古いのか?

2013.2.2

「伝統工芸や老舗を残す」ということを聞く。それはそれで素晴らしいことだと思うが、「アートやアーティストを残す」ということは聞かない。「お金に余裕が出来たら買いたいんだよね」という台詞を聞くが、合コンに行ったり、旅行に行ったりするお金はあるようだ。
 
お金を貯めて高価な物を買ったり、敷居の高い料理店に行くなどということをしたことがないのだろう。何でも微銭を毎月払えば手に入ると思っているのかもしれない。しかし、そういう人々の方がお金が相対的な価値ではなく、絶対的な価値があると疑っていないように見える。譲歩した言い方をすれば、育ち、育てられ方、愛でる感覚、言葉の威力の感覚が違うのだろう。聞き流す言葉が増えるのも経験からきているな、と思うようになった。
 
「○○に余裕が〜」なんて口走る人達がターゲットになることはなく、ターゲットにならないということは相手にしないということなのだから、わざわざ「○○に余裕が~」なんて言わなくていいのにと思ってしまう意地悪心……。
 
お客が顧客となり、家族ぐるみの仲になるように、好きなことを仕事にしてしまったら、そこで良い関係にならずにどうして率先して相手ができようか。職能以外の場所で持ちつ持たれつの間柄になるには、その場所での能力が必要になるが、それすらも理解できないから、都合の良い言葉を並べるのではないのか?

物を作る

2013.2.1

「物を作らない」という選択肢をここ数年はよく見かける。ディレクションやブランディングを掲げているところでは特にその傾向が強いようだ。しかし、僕はこの選択肢を使うには「世界規模でもまだ早い」と思っている。
 
なぜかというと、「作らない」という選択肢を選ぶ背景に、大量生産による質の低下と粗悪な品々が溢れているというのが強いからだ。そこで育った世代がその後に作られない時代を経験すれば、選択して吟味するということが出来なくなる。感覚を磨くというのは、上質な品と粗悪な物に触れて素養ができ、素養を元手に選択して培われていく。人間は「目−手−脳システム」によって今の脳状態にまで成長したと聞いたことがある。もしも、そうであるならば、物がなければ「手」の部分が失われるということになる。
 
粗悪な物が溢れているのならば、上質な物を作ればいい。
 
作家であり思想家でありデザイナーであったウィリアム・モリスは、粗悪な物が溢れていた時代に、質を高めた商品を生み出す運動をし、それが20世紀のデザイン思想に大きく影響を及ぼした。当時の結果は、モリス達が生み出した品々は高価過ぎて富裕層にしか買えなかったというものであったが、現代でも同じようなことになるとは限らない。
 
上質というのは、性質を適切な形で表出されていると僕は考えている。本なら本にまつわる感覚——本に触れて、文字を読み、内容を咀嚼し、それまでの自己をアップデートし、相手に伝える。お店なら商品やサービスがあり、それらに触れ、味をみたり、物を見たり、耳を働かせ、会話が生まれ、誰かを連れて行く——こういったことが起きるのだが、その中には必ず、感覚が働くために「何かに触れている」ということだ。つまり、そこには「物」がある。
 
しかし今、粗悪な物が溢れ、その結果に「物を作らない」という選択肢が当り前のようになってしまえば、次の世代は何を基準に体を働かせ、感覚を磨いていくというのだろうか? 真の意味で「育てる」ということをしたいのなら、今こそ「物を作る」ということが必要だと考えられる。