物を作る

2013.2.1日々のこと

「物を作らない」という選択肢をここ数年はよく見かける。ディレクションやブランディングを掲げているところでは特にその傾向が強いようだ。しかし、僕はこの選択肢を使うには「世界規模でもまだ早い」と思っている。
 
なぜかというと、「作らない」という選択肢を選ぶ背景に、大量生産による質の低下と粗悪な品々が溢れているというのが強いからだ。そこで育った世代がその後に作られない時代を経験すれば、選択して吟味するということが出来なくなる。感覚を磨くというのは、上質な品と粗悪な物に触れて素養ができ、素養を元手に選択して培われていく。人間は「目−手−脳システム」によって今の脳状態にまで成長したと聞いたことがある。もしも、そうであるならば、物がなければ「手」の部分が失われるということになる。
 
粗悪な物が溢れているのならば、上質な物を作ればいい。
 
作家であり思想家でありデザイナーであったウィリアム・モリスは、粗悪な物が溢れていた時代に、質を高めた商品を生み出す運動をし、それが20世紀のデザイン思想に大きく影響を及ぼした。当時の結果は、モリス達が生み出した品々は高価過ぎて富裕層にしか買えなかったというものであったが、現代でも同じようなことになるとは限らない。
 
上質というのは、性質を適切な形で表出されていると僕は考えている。本なら本にまつわる感覚——本に触れて、文字を読み、内容を咀嚼し、それまでの自己をアップデートし、相手に伝える。お店なら商品やサービスがあり、それらに触れ、味をみたり、物を見たり、耳を働かせ、会話が生まれ、誰かを連れて行く——こういったことが起きるのだが、その中には必ず、感覚が働くために「何かに触れている」ということだ。つまり、そこには「物」がある。
 
しかし今、粗悪な物が溢れ、その結果に「物を作らない」という選択肢が当り前のようになってしまえば、次の世代は何を基準に体を働かせ、感覚を磨いていくというのだろうか? 真の意味で「育てる」ということをしたいのなら、今こそ「物を作る」ということが必要だと考えられる。

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