Archive for 2012

焼きそばパン

2012.12.9

昨日の夕飯、常備しているスープも空になり店屋物は重いな~と思い、ツナサンドをこしらえて食べていた。そこで気づいたことがあるのだが、僕はツナサンドが好きだ。正確にいうとパンに何かをはさむのが好きなようだ。あんこ、ポテトサラダ、ハンバーグ、ジャム、タマゴ、天ぷら、ニラ玉、生クリーム……何でもはさんで食べているし、パンの種類もそれぞれの特徴を楽しめるので、決まった種類ばかりを選ぶということはない。
 
しかし、ここで再び気づいた。焼きそばパンをあまり選んでいないのだ。自分で作るときもソバメシにすることはあっても、わざわざ焼きそばパンにすることはないし、お店で選ぶときも他の惣菜パンや菓子パンを選んでいる。では、焼きそばパンと似た構成のナポリタンパンはどうかというと、しっかりと選んでいるのだ。マヨネーズを和えたスパゲッティサラダパンも選んでいる。
 
決して、焼きそばパンを不味いと思ったわけではないし、食べているときは「美味しいな~」と思って食べている。それでは、他のパンの方が目を引くのか、他のパンの方が好きなのか――やはり、そうでもない。
 
焼きそばパンを選ばない理由、それは、焼きそばをパンではさんだときの美味しさにあるのだと思った。相乗効果を比べても、他のものよりかは効果が高いと感じなかったり、別次元の美味しさに変化しているわけでもないと感じているのかもしれないのだ。今、想像して食べているのだけれども、やはり、焼きそばをモリモリ食べる方がいいな~と思ってしまう。
 
ここまで書いてしまうと、「究極の焼きそばパン」を作ってみたくなってきたぞ。

昨日のつづき

2012.12.8

今朝からmacでのIE互換性やソフトやプラグインやスクリプトの書き換えなど……デベロッパーじゃねぇっつーの。けれども、約11時間離れずにやったお蔭で以前のものよりも断然いい物になりましたよ。昨日の話のつづきになってしまうが、「ここまでやれば上出来じゃないか」のもう一踏ん張り後にやってくるご褒美は、ちょっとしたプラスアルファぐらいでしかないけれど、その積み重ねが技術の向上だとか、頭の回転の向上に繋がるんだよね。何でもそうだけど、いきなり何でも出来るわけじゃない。
 
それを知らずに、あと一歩の前に終えてしまう人達が、「まれにいる天才はグーンといっちゃうよね」なんて言うけれど、天才と言われる人達の方が努力家だと僕は思うぞ。
 
宗達もダ・ヴィンチもマザー・テレサもアインシュタインも会ったことはないけれど、踏ん張り屋だったんじゃないかと思い、もしも「あの世」ってものがあったら、ちゃんと僕らのことを見ていると思うんだな。そんで、会えるようになったとき、「オメェ、なかなかカッコイイことやってたじゃん」と言われたら嬉しいな〜、ぐらいのことを疲れ切ったときに想像すると口元が緩む。
 
その2つのことが、あと一歩を踏み出させるんだよな〜。単純だ。

全部つながっている話

2012.12.7

僕がよく挙げている性質に「最高密度と最高速度」というのがある。一般的な考え方では、この2つを共存させることが難しいと思われているけれど、僕は出来ると思っている。
 
それと、最高速度というと誰に対しても同じ速度や距離(時速100kmで直線距離40kmを進むみたいな)だと思われがちだが、それとは違う。僕が話すときの最高速度というのは、自分における速度と距離のことであり、人によって変わるというものだ。しかし、ここでも再び勘違いをされて、わざと遅く、遠回りをした方が良いと思ってしまう人達がいるのだ。「あともうちょっと踏ん張れば、同じ質のまま、その速度と道筋の向こう側に行けるよ。そうしたら、次は質も向上するよ」——これがなかなか伝わらないようだ。
 
この、わざと遅く遠回りをすることも、現代の価値とされている「(誰に対しても同じ)速度重視」も質を下げる原因ではないだろうか。前者は挑戦することの恐れや不安が引き起こしていることだろうし、後者は明日のメシが食えなくなるんじゃないかという恐れや、他人と比べることで生じる恐れや不安だろう。
 
何度も言うが、今日死ぬかもしれない可能性は誰に対しても平等にあるし、だったらその瞬間に笑っていたいか、後悔したいかのどちらかなんじゃないだろうか。そして、誰もが何かしらの悲しみや怒りなどを経験して生きているが、笑顔の人というのは、悲しみや怒りの存在を認めて、その感情と一緒に生きることを決意したり、乗り越えた人達なんじゃないかな。
 
何となく、そう思うんだよな〜。

つくる方を選ぶ

2012.12.6

サイト構造を大きく変えようと思っている。散らばって成長していったものたちが、集まってパワーアップするように目論んでいる。しかし、それぞれのコンテンツの成長ぶりに伴う、不確かな印象を与えてしまっている僕の職業性(写真家なんだけどね)を増長させてしまわぬようにするには、けっこう至難の業だな〜、なんて呑気に考えている(それでも昨夜は23時まで起きているという、記録的な夜更かしをしたのだ、ほ、誉めてくれ)。そう、それもこれも下記のような質問がなるべくこないように……。
 

 
A「エグチさんの職業は何ですか?」
俺「写真家です」
 
A「文章を書いたり、絵を描いたり、デザインをしているのに?」
俺「はい」
 
B「カメラを持っていないのですか?」
俺「はい」
 
C「依頼をしたらいくらですか?」
俺「ここに記載しています(記載されているページを出す)」
 
C「高いですね」
俺「技術職なんで、そんなもんです」
 
C「広告の時とアートの時の価格差がありますね」
俺「かかる経費と時間を考えたら、そんなもんです」
 
D「ホームページを2つ持つのは何故ですか?」
俺「ニュースリリース+記録保持(黒盤)と遊び場(白盤)を分けるためです」
 
D「なぜ使い分けるのですか?」
俺「一辺倒が嫌なのと、人間はアンビヴァレンスな存在だと考えているので2つ持ちたくなりました」
 
E「ブログの文章ってどのくらいの時間で書きますか?」
俺「長くても20〜30分です」
 
E「よくそんなに言葉や絵柄が生まれますね」
俺「自然と出てきませんか? 僕は出てきます」
 
E「それぞれの作品のコンセプトは?」
俺「……(だから文章を載せてんじゃん)」
 
E「加工をすることについては、どう考えていますか?」
俺「撮ること自体が既に加工だと考えているので、ストレート写真の類いも加工と考えられます(これも文章に載せているし)」
 

 
こういったことが自然とわかるようなサイト構成にしたいな〜、なんて考えているんだけれども、むむむ、難しいな〜(本当はもうラフを描いているんだけどね)まぁ、オールクリアでなくとも、誰かとお会いした際の一助になるような。そして、話す面倒臭さよりかは、作る面倒臭さの方が僕にとっては容易いってことなんです。

2種類の恥ずかしさ

2012.12.5

気づいている人は気づいているみたいで、ここで書く文体を変えている。ちょっと格好つけて言うと、「友のため」に一歩進んだ書き方と以前の書き方を混ぜることを実践している。もちろん、これを実践したことで、僕の成長が見込めなかったらやっていないだろうし、誰かに言われて文体を変えたわけではない。来たる日の友の力になるために、自ら訓練を積んでいるのだ。そうかと言って、別に書く内容を細かく決めているわけではなく、ぼんやりと書き始めを見つけてから、いつもの「エグチ節」で文章化しているのだ(たくさんの人達から最近、僕の言葉の使い方や話し方に対して「エグチ節」と言ってもらえることが多いんだよね、あざす)。
 
しかし、わざわざ「ちょっと格好つけて言うと……」と前置きをし、しかも「ちょっと……」と言っている辺りに「恥ずかしさ」を感じているのだろう。この「恥ずかしさ」、言い換えると「照れ隠し」なわけだが、他の人達と話して聞こえてくる「恥ずかしさ」とは意味が異なるようだ。では、他の人達が言っている「恥ずかしさ」とは何だろうか?
 
それは、自分の意見を言う恥ずかしさである。自分の関わったものを見せる恥ずかしさとも言えるが、こちらの「恥ずかしさ」の根っこにあるのは、他人に笑われたらどうしよう、という不安や恐れだ。他の言い方をすると、他人に否定(批判)されたらどうしよう、という不安や恐れであり、この不安や恐れからくる恥ずかしさの厄介なところは、不安や恐れからくる恥ずかしさに負けた人は、他人を笑い、否定し、批判する側に徐々に入っていき、なかなか抜け出せなくなってしまうところだ。これは、昨日書いた「何でもかんでもマーケティング」ということと一緒で、悪いことが起きたら誰かのせいにしたり、自身で考えて動くということがなかなかできない状態に陥っていくと考えられる。
 
自身が所属しているコミュニティでする発言や発表なんて、誉められるにきまっていよう。しかし、5分後には別の話題に移り、そんなものなんてただの飾りにもならず、忘れ去られるだけになってしまう。それで良いのなら構わないが、それならせめて、他人を笑う側に入るのだけは、どうにかならないだろうか? いや、百歩譲って、君以外の誰かを、他人を笑う側に引き込むのだけは、どうにかならないだろうか?
 
僕らが克服しなきゃならない不安や恐れって、政治や経済ではどうにもならないことでしょう。そして、僕らが他人に批判されようとも闘っている理由って、ここにあるような気がするんだな。政治だとか、経済だとか、美術だとか、藝術だとか、批評家だとか、アーティストだとか、そんなものは関係ないところの話なんだけどね。