2種類の恥ずかしさ
2012.12.5日々のこと気づいている人は気づいているみたいで、ここで書く文体を変えている。ちょっと格好つけて言うと、「友のため」に一歩進んだ書き方と以前の書き方を混ぜることを実践している。もちろん、これを実践したことで、僕の成長が見込めなかったらやっていないだろうし、誰かに言われて文体を変えたわけではない。来たる日の友の力になるために、自ら訓練を積んでいるのだ。そうかと言って、別に書く内容を細かく決めているわけではなく、ぼんやりと書き始めを見つけてから、いつもの「エグチ節」で文章化しているのだ(たくさんの人達から最近、僕の言葉の使い方や話し方に対して「エグチ節」と言ってもらえることが多いんだよね、あざす)。
しかし、わざわざ「ちょっと格好つけて言うと……」と前置きをし、しかも「ちょっと……」と言っている辺りに「恥ずかしさ」を感じているのだろう。この「恥ずかしさ」、言い換えると「照れ隠し」なわけだが、他の人達と話して聞こえてくる「恥ずかしさ」とは意味が異なるようだ。では、他の人達が言っている「恥ずかしさ」とは何だろうか?
それは、自分の意見を言う恥ずかしさである。自分の関わったものを見せる恥ずかしさとも言えるが、こちらの「恥ずかしさ」の根っこにあるのは、他人に笑われたらどうしよう、という不安や恐れだ。他の言い方をすると、他人に否定(批判)されたらどうしよう、という不安や恐れであり、この不安や恐れからくる恥ずかしさの厄介なところは、不安や恐れからくる恥ずかしさに負けた人は、他人を笑い、否定し、批判する側に徐々に入っていき、なかなか抜け出せなくなってしまうところだ。これは、昨日書いた「何でもかんでもマーケティング」ということと一緒で、悪いことが起きたら誰かのせいにしたり、自身で考えて動くということがなかなかできない状態に陥っていくと考えられる。
自身が所属しているコミュニティでする発言や発表なんて、誉められるにきまっていよう。しかし、5分後には別の話題に移り、そんなものなんてただの飾りにもならず、忘れ去られるだけになってしまう。それで良いのなら構わないが、それならせめて、他人を笑う側に入るのだけは、どうにかならないだろうか? いや、百歩譲って、君以外の誰かを、他人を笑う側に引き込むのだけは、どうにかならないだろうか?
僕らが克服しなきゃならない不安や恐れって、政治や経済ではどうにもならないことでしょう。そして、僕らが他人に批判されようとも闘っている理由って、ここにあるような気がするんだな。政治だとか、経済だとか、美術だとか、藝術だとか、批評家だとか、アーティストだとか、そんなものは関係ないところの話なんだけどね。