Archive for 2010.1

フェア

2010.1.11

 「おいしいコーヒーの真実」という映画を観た。そこではコーヒーの原産国の人々が低賃金で労働し、大企業が私腹を肥やすという資本主義の形が描かれ、フェアトレードを訴えていた。この映画を観ながら、僕は日本における非正規労働の問題と同種のものを感じていた。後者では、同一労働・同一賃金が大きい問題となり、海外の資本主義国家の労働者は同一労働・同一賃金を当たり前と思うらしい、というか私も当たり前だと考えている。しかし、双方において言えるのは、自分の利権ばかりを唱えていては何も変わらないということであり、人々の意識を変えていかなければ本質は何も改善されないということだ。

 何故、自分の利権ばかりではいけないのか? 大国が自分の利権ばかりを守ろうとすると必ずそのツケが大本にやってくる。そして、原産国にやってきたツケはその人々の教育を奪い、お金になるという理由だけで麻薬栽培に手を染め、抜け出せなくなる。そして、その先にあるのが戦争だ。結局、他の生命が無惨に殺されてしまうだけであり、それはそのまま人々の「考える」という可能性を奪い、他の生命体が「生きる」という可能性を奪うことになっている。

 そして、この「自分の利権だけを守る」というのは先に挙げた日本の問題にもあるようだ。いつの頃か忘れてしまったが、派遣村のドキュメンタリーが放送されていて観ていたら、やはり、社会を批判し、会社を批判し、取材人(←人間だ)との会話の最中に配給のおかわりに向かうという場面があった。そのような人達だけではないだろうし、人は衣食住のどれかでも著しく欠けてしまえば考える力を失うというのは頻繁にある。加えて、彼らの給与を上げるためには正社員の給与を下げざるを得ないのだが、「頑張って正社員になったのだから・・・」や「今まで長いこと会社に勤めてきたのだから・・・」と頑張り(聞こえの良い言い方をすれば「人間味」というところだろうか)を主張するのだが、こと「年金問題」になると「自分はもらえるのかしら」や「将来の自分のため」に年金を支払っていたり心配していたりする場合がほとんどだ。つまり、前者では人間味を主張して自分の利権を守っているにも関わらず、後者では(本来は他人のために支払うものなのだが)ちゃっかりと自分の心配をして問題にしているのである。

 なんということだ。あの映画で登場していたフェアトレードと似たような問題ではないか。結局は強い立場にいる者が自分の損得ばかりに気を取られ、ほんの少しの損を嫌がるばかりに弱い立場にいる者が人間らしい生活が送れていないということだ。

 そのような意味で「おいしい—」で登場した、生産者達の会議で「俺は自分の服を売ってでも、子どもの教育のために学校を建てたい」とおっしゃっていたり、特典映像で「消費者の権利はあるけれど、同時に消費者には義務と責任がある」と伝えていたりしていた場面が印象深かった。このことは映画を通しても特典映像を通してもずっと根底にあったように思われ、つまり、どちらも「教育」ということが必要になってくるのと、「人が人として当たり前に生きていけるような社会を目指している」ということだ。

 そして、そんな社会を可能にするためには、私たち一人一人が意識的に物事を考え、本当に良いものを選んで生きていくという生き方である。

 私のような藝術業の人間がそのようなことを述べていると、笑われたり、「偽善者」、「政治家になれば」と揶揄されたりするが、私は話し続ける。何故ならば、そのことによって変わってくる人々がいるし、「自分だけじゃない」と勇気をもってくれる人々がいたら嬉しいからだ。そして、それが私にとって嘘が無い生き方になるからだ。とっても単純な理由である。

(2010年1月11日 18:40)

単純な理由

2010.1.6

 数年前には考えてもいなかったが、今では大判出力をするのが当たり前となっている。作品も1億ピクセルを超えるのは当たり前。1ピクセルを1人と考えると、「この1枚に日本人の人口ほどが密集しているんだなぁ」としみじみ思う。

 また、デジタルと言ったとしても、出力の度にちょいちょい手を加えるので、結局一点ものになってしまっているし、大判プリンターの稼動姿を見ていると一列一列少しずつプリントされているので、全てがアナログに思えてくる。

 そして、出力が終ったプリントを目の前にすると、全ての通俗的な事柄が頭から消えてなくなるし、視覚だけではなく全ての感覚が目の前の1枚に持っていかれる。これは、先日の姪と会っていた時や、圧倒的な自然と対峙した時に抱く感覚と一致する。ミメーシスによる制作ではなく、創造しようとしてつくられた作品がそのような性質を持ってくれるのはとても嬉しいし、藝術をやる理由が、純粋にそこにあるのだろうなと深々と思う。

 「やっぱり、作品は創るのも観るのも楽しいね」って思った。

「感じること」と「考えること」

2010.1.5

 仮に人類が私一人だけであったら、私は作品を創る必要が無い。藝術と哲学と宗教が同じものを対象とし、優れた藝術家には哲学性と宗教性が表れてくるということは以前にも述べた。加えて、優れた作者は「美しさを判断する能力」と「それを具現化する能力」が高いことも述べている。しかし、「具現化」の能力とは作者以外の人々が存在してはじめて必要とされる能力であり、作者だけが存在しているのであれば、「美しさを判断する能力」のみが高ければ充分なのだ。つまり、作品を創るということが、とても社会性のある行為だと言えるのである。

 ここで、「藝術と哲学と宗教が同じものを対象としている」と述べたが、それは何だろうかという疑問が生じてくる。しかし、それが「真理」であり、真理が「物事の本質である」ということも既に述べている。けれども、そこから先は少し言い方を変えて話を進めていこう。

 「物事の本質とは何か?」ここから対象は多岐に渡る。私たちは人間であり、社会が人間によって成り立っており、全ての社会物は人間から始まっているのだから、「人間」ということから考えてみることにしよう。人間とは何か? 人間とは言わずもがな、動物である。動物であるということは生物である。生物であるということは、生きて死ぬ。生きることと死ぬことが避けられないのは全ての生物において言えることであるが、では、人間とその他の生物との違いは何だろうか? それは「考える」ということである。「感じる」ことから「考える」ことが出来るようになり、そのお蔭で、文化も政治も経済も発展してきた。もしも他の生物と同じように、人間が「考える」ことが出来ない生物であったら、他の生物と同じように何年、何百年経っても同じことしか出来ないでいただろうし、生活様式が変わることもなかっただろう。縄文時代の人間と現代人が本質的には同じだと言われる中、多くのものが変化してきたのは、人間が「感じて」、「考える」ことが出来る生物だからだ。

 だからこそ、少しでも「変だな」と違和感を感じたり、「善いな」と快を感じたりしたら、そこから考えることが必要なんだ。ということは、「社会では生きていけない」や「現実的には・・・」などと大人ぶって考えることを放棄するのは、人間という動物(生物)を真っ当に生きているとは言えない、ということが分かるだろうか? 真っ当に生きていないということは、中途半端に生きているということだが、他の動物ではどうだろうか? 考えることが出来ないとされているだけで、実は考えることが出来ているかもしれないし、そもそも彼らは彼らの種族として真っ当に生きて、死んでいっている。それ故、中途半端に生きるということも人間にしか出来ない所行だと言えるが、そんな中途半端に生きている人間にさえ、真っ当に生きて死んだ生物は食料になっているということを理解出来るだろうか? これだけでも「いただきます」や「ごちそうさま」と言うことについて考えることが出来るし、食物を味わう(味を感じる)ことから、食物について考えることが出来、そこから自分が生きているということについて考えることが出来る。そして、そこから自分が死ぬということについても考えることが出来る。そんなところから、大人ぶって諦めたり、妥協したりして考えることを放棄した状態からは既に抜け出せているね。つまり、中途半端な生き方からは脱しているということであり、中途半端ではない生き方ということは「一生懸命に生きている」ということだ。そんなことが出来るのも、「感じて」、「考える」ことが出来る人間だからなんだよ。「感じて」、「考える」だけでいいなんて、とっても単純で簡単だと思わないかい? 後は、浅はかに気取って人間として中途半端に生きるのか、人間としてたくさん「感じて」、たくさん「考えて」一生懸命に生きるのか、君が選ぶだけだよ。

(2010年1月5日 9:17)

お正月

2010.1.2

 あけましておめでとうございます。

 姪っ子と会ってきましたが、「目に入れても痛くない」というのは本当ですね。

 子どもと出会ってつくづく思うのは、「今の時代が悩んでいることをこの子達の時代には残したくない」ということ。それは、その子達の次の時代や、次の次の時代、最終的には人類が終る時にまで考えてしまう。その子達の時代に善いものが残っていて欲しいし、善き人が今よりも多く存在して欲しいのだが、そのためには今の時代においても本当に善いものだと通じなければならない。こういうことに自然と考えが及んでしまうから、僕は藝術を選び、哲学を選んでいるのだ。むしろ、選んでいるというよりかは、そのような考えや作品が、哲学や藝術だと言える(わからなければ辞書を引くことを勧める)。

 作品が人の手に渡るときには、「善いことをしてください」ということを思い、伝えている。誰かが他の誰かに善いことをすれば、再び他の誰かが、また別の誰かに対して善いことをし、この「善いことの連鎖」によって人は善き人になっていく。そして、善き人が多ければ、社会は善き社会になっていくものだ。何故ならば、はじめに社会があって人間がいるのではなくて、社会は人間がいてはじめて成り立つものだからだ。

 では、「善いこと」とは何だろうか? 人はまずここで悩み、考える。つまり、考えることをし、善について考えるということは悪についても考えることであり、それは即ち、人間についても考えるということだ。だから僕は自分に対しても、他人に対しても善いことをしようとするのだ。随分遠回りな方法だと思われるかもしれないが、実は一番の近道だと考えている。