「感じること」と「考えること」

2010.1.5日々のこと

 仮に人類が私一人だけであったら、私は作品を創る必要が無い。藝術と哲学と宗教が同じものを対象とし、優れた藝術家には哲学性と宗教性が表れてくるということは以前にも述べた。加えて、優れた作者は「美しさを判断する能力」と「それを具現化する能力」が高いことも述べている。しかし、「具現化」の能力とは作者以外の人々が存在してはじめて必要とされる能力であり、作者だけが存在しているのであれば、「美しさを判断する能力」のみが高ければ充分なのだ。つまり、作品を創るということが、とても社会性のある行為だと言えるのである。

 ここで、「藝術と哲学と宗教が同じものを対象としている」と述べたが、それは何だろうかという疑問が生じてくる。しかし、それが「真理」であり、真理が「物事の本質である」ということも既に述べている。けれども、そこから先は少し言い方を変えて話を進めていこう。

 「物事の本質とは何か?」ここから対象は多岐に渡る。私たちは人間であり、社会が人間によって成り立っており、全ての社会物は人間から始まっているのだから、「人間」ということから考えてみることにしよう。人間とは何か? 人間とは言わずもがな、動物である。動物であるということは生物である。生物であるということは、生きて死ぬ。生きることと死ぬことが避けられないのは全ての生物において言えることであるが、では、人間とその他の生物との違いは何だろうか? それは「考える」ということである。「感じる」ことから「考える」ことが出来るようになり、そのお蔭で、文化も政治も経済も発展してきた。もしも他の生物と同じように、人間が「考える」ことが出来ない生物であったら、他の生物と同じように何年、何百年経っても同じことしか出来ないでいただろうし、生活様式が変わることもなかっただろう。縄文時代の人間と現代人が本質的には同じだと言われる中、多くのものが変化してきたのは、人間が「感じて」、「考える」ことが出来る生物だからだ。

 だからこそ、少しでも「変だな」と違和感を感じたり、「善いな」と快を感じたりしたら、そこから考えることが必要なんだ。ということは、「社会では生きていけない」や「現実的には・・・」などと大人ぶって考えることを放棄するのは、人間という動物(生物)を真っ当に生きているとは言えない、ということが分かるだろうか? 真っ当に生きていないということは、中途半端に生きているということだが、他の動物ではどうだろうか? 考えることが出来ないとされているだけで、実は考えることが出来ているかもしれないし、そもそも彼らは彼らの種族として真っ当に生きて、死んでいっている。それ故、中途半端に生きるということも人間にしか出来ない所行だと言えるが、そんな中途半端に生きている人間にさえ、真っ当に生きて死んだ生物は食料になっているということを理解出来るだろうか? これだけでも「いただきます」や「ごちそうさま」と言うことについて考えることが出来るし、食物を味わう(味を感じる)ことから、食物について考えることが出来、そこから自分が生きているということについて考えることが出来る。そして、そこから自分が死ぬということについても考えることが出来る。そんなところから、大人ぶって諦めたり、妥協したりして考えることを放棄した状態からは既に抜け出せているね。つまり、中途半端な生き方からは脱しているということであり、中途半端ではない生き方ということは「一生懸命に生きている」ということだ。そんなことが出来るのも、「感じて」、「考える」ことが出来る人間だからなんだよ。「感じて」、「考える」だけでいいなんて、とっても単純で簡単だと思わないかい? 後は、浅はかに気取って人間として中途半端に生きるのか、人間としてたくさん「感じて」、たくさん「考えて」一生懸命に生きるのか、君が選ぶだけだよ。

(2010年1月5日 9:17)

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