Archive for 2010

凄い先輩たち

2010.11.7

 たばこと塩の博物館「和田誠の仕事」展へ。温かみとユーモアがあるが、それでいてピリッとする色と色の境界線。現代が「ヘタ上手い」が流行っているとして、大抵の人が単なる下手で終ってしまっているのとの違いはここなんだろうな、と思いながら観ていると、和田さんが作業している現場を録ったビデオが流れている空間にやってきた。ビデオの内容は学芸員(?)と話しながら作業が進むのだが、僕が気になったのは和田さんの手だ。筆を握り、鉛筆を握るその手は、皺があり、肉付きがよく、絵を描くためにあるような手のように見えてしまったのだ。長年描き続けた人の手なのだろう、先日観た「ドガ」展と同様に、残ったものの深い強さというのを感じるこの2週間だった。

料理は愛情って名言

2010.10.29

 寒い。寒さは首が凝りやすくなってしまうのでとても大変だ。一年の半分くらいは夏でいいじゃないかと思ってしまうほどだ。日本は四季があるのが情緒的に良いと言われやすいが、今年なんて秋を感じる間がなかったし、昨年は夏が短かったような気がする。探してみればあったのかもしれないが、探さなければならない四季ならば、四季を感じないと言われる地域にも四季が出てくる。

 しかし、この寒さを克服出来れば、案外、良いことが多い。むしろ、人の体温が気持ちいいし、料理が美味しく感じる。料理といえば、普段、僕は自炊をするし、他人にも作ったりする。そこで最近、気がついたことに、人に作っている時の方が一生懸命に料理をしているようなのだ。これに気付いたのは、料理の味が違うと感じたからで、自分のためだけに作った料理の味が別に味覚として不味いというのではなく、温かみが少ないような味がしたのだった。そして、それは何だか、勿体ないような気もして、注意深く味わうことを続けていたら、「自分にも情を持たなきゃね」と思ったのだった。

 そりゃそうだ、何でも義務になってしまえばつまらないし、何よりも中身がなくなってくる。さて、スープが美味しくなる季節がやってきた。寒いと料理が美味しいのだ。

ライブトーク2回目

2010.10.22

 明日、ライブトークの2回目があります。前回は「会場には入れません」と言っていましたが、入れるようでした。なので、会場で聴くも良し、ustreamで聴くも良し、ドキュメントで読むも良しの企画です。よろしくお願い致します。

詳しくはhttp://www.drunkafternoon.com/utility/livetalk_02.htmlで調べて下さい。

動画も静止画も

2010.10.20

 写真をやっている人間が安易に動画を作ってしまうことに抵抗感を覚える。この抵抗感はスライドにおいても同じであり、本来、僕達は静止画を一生懸命に創作している人間であったはずだ。道具が近いからといって片手間で出来るほどの領域ではないことは、静止画をやっていてもわかるはずである。それは逆の立場からも言えて、動画といっても1コマずつ切っていけば静止画になるが、静止画として良いもので1つの動画を構成してしまっては話(流れ)に抑揚がなくなり、退屈極まりないものになる。

 だから初めて映像を作ったときは、映像作品としての常套手段を踏んでいったし、総合芸術と言われるが所以も理解できた(総合≠最高)。

 その後はそれまで以上に、映像作品(映画を含む)を観る時にカット割り、話、音響、配役、技術などに気を配るようになり、良い作品と出会うと連続で3回(楽しむ→どこが良い(悪い)のか調べながら観る→それを確認しながらもう一度楽しめるかどうかを試す)は観てしまうようになった。今までも良い作品は複数回観ていたが、連続で観るようなことはなかったし、こうするようになってからは、「絶対にラストは言わないで下さい」という謳い文句の映画は、作品として駄目だと今まで以上に思うようになった。そういう奇をてらった内容というのは一度観れば十分になってしまい、普通にしているのが一番良いということが裏付けられるだけなのだ。

 これは静止画においても同様であり、結局、名作の構図は決まってくるし、変に意固地になる必要はないのだ。心持ちを軽くして、本当に伝えたいことだけを想って作品と向かい合えば勝手に作品は創られていく。

快楽主義者

2010.10.17

 「ハートロッカー」を観た。冒頭にでてくる「戦争は麻薬である」という文句に納得しながら観ていた。当事者以外の生物が犠牲になることから僕は戦争に賛成できないが、この文句はいわば「死を身近に感じる体験は麻薬である」ということだろう。

 「今日死ぬかもしれない」というのは誰にでも当てはまる常識だが、油断してしまえば先のことを見てしまう。この常識を忘れているときというのは大抵、欲にまみれているときであったり、何かに執着しているときだ。

 座ってなんかいられない、会話なんてどうでもいい、ただただ身近にまでやってきた生死の感覚だけと向き合ったときのヒリヒリとした快感。そんな時はどうしても笑みがこぼれてしまうし、これを感じてしまえば、日常の大半のことはどうでもいいものになってしまう。文明社会での約束事なんてものは、「今日死ぬかもしれない」という常識の逆を求めた結果なのだから突き詰めればボロが出て阿呆らしくなるのは当たり前だが、豊かな社会を求めた結果、軽鬱もどきや自己啓発が流行るのだから皮肉にもならない。

 作品を創作しているときには生死の感覚を得やすいが、もっともっとと欲してしまうのは快楽主義でしかないのだろう。そう、もっとヒリヒリしたいのだ。