Archive for the ‘心の健康’ Category

そっとしておく。

2018.7.19

「弱者」という言葉が苦手です。
おそらく、弱者になったことがあるヒトは、ぼくと同じではないでしょうか。
「弱者になる」というのは、「ぼくは弱者です」と言ってなるものではない。
決まって、誰かによって弱者にさせられるのです。
 
あまり言わないが、ぼくは持病持ちです。
生まれてすぐに腎臓病になりました。
子どもの頃、ぼくが病気でぐずると、「もっと大変なヒトがいる」と説教されたものです。
ぐずらなくとも、出会う大人全員が言っていたような気がしています。
(記憶の取り違えはあると思うけど)
 
この経験が、年齢や肩書きや立場を気にしない性格を作ったと言えるでしょう。
ヒトの言うことのほとんどは、そのヒトが作り出した偏見だということもわかりました。
この偏見に縛られているヒトは、ぼくに何もできないこともわかりました。
 
「小さな親切。大きなお世話」という言葉があるけれど、最近、この境目が分かったような気がしています。
正義を原動力にする親切は、大きなお世話になりやすい。
正義は大義名分になりやすく、行動の先にいる相手のことは、自分色に染めるようなものかもしれません。
戦争がそうでしょう。
 
親切には「そっとしておく親切」というのもあります。
 
もしも、弱者と言われるようなヒトと出会ったら、「そっとしておく親切」もあることを忘れないようにしたいです。
緊急性が高いのか、見守った方がいいのか。
完璧な方程式なんて、ないんだから。

図書館という不思議じま。

2018.7.6

図書館というのは不思議な島だと、つくづく感じます。
外界の音は聞こえず、中は静か。
この中にある本棚と本棚の間を、おっちゃんが屁をこきながら、歩いていたり。
周囲を気にするそぶりもなく、一定のペースで歩きながら、屁をプッ、プッ、プッ。
通路を渡って、おまけで、プッ。
 
屁が鳴っている間、周りのヒトたちは、自分のことに集中。
屁をこいていないおっちゃんも、子どもを連れているお母さんも、スカして雑誌を読んでいる青年も、みんな自分のことに集中している。
「他のヤツの屁ごときで、俺の心は乱されないぜ」という一糸乱れぬ姿にすら見える。
自分の内なる世界と対峙する、武士のような集中力だ。
(武士知らないけど)
 
いや、内心は乱れまくっているが、周囲に悟られないように、取り繕っているのかもしれない。
そうだとしたら、なんというポーカーフェイスか。
何にも役は揃っていないのに、勝負に挑むギャンブラーじゃないか。
 
一発目の屁から、視線をおっちゃんに向けてしまった俺は、なんという小心者か。
集中力が足りなすぎる。
座禅の時間だったら、すぐに棒で叩かれていただろう。
 
いやはや、図書館島の住人たちよ、屁をこく方も、こかれる方も、大したもんだよ。
こういう世界を見ていると、会議や打合せで話される内容が、ずいぶん偏った世界だと痛感します。
悪く言うと、学術論文に到底及ばない、自分都合の陳腐なデータを集めた机上の空論。
だから、仕事のことを考えるとき、ぼくは図書館で論文や本を読んだり、外の世界を見るんです。
図書館以外にも色々とね。

煩悩を 消してくれる 書き心地

2018.7.2

煩悩を 消してくれる 書き心地
 
万年筆を正しく持って、文字を書いた心境です。
店頭で試し書きをしたときには、それほど感じなかったけれど、家に帰って、椅子に座っていつものように文字を書いたら、なんと書きやすいことか。
 
実は書き始める前、ぼくは少しイライラしていました。
ちょっとしたことが重なってしまい、鬱屈した状態だったのです。
それでも目の前には、せっかく買った万年筆が、箱の中で眠っている。
 
36歳で初めて手に入れた万年筆。
恋人から欲しいものを聞かれ、タイミングよく、パイロットさんの「キャップレス万年筆」の存在を耳にしたのが、ことのはじまり。
ペン先の太さが何種類もあることを知り、誕生日プレゼントで貰うからと、二度も店頭で試し書きをした万年筆。
試し書きをした紙を家に持ち帰って、太さを迷いに迷って決めた万年筆。
  
ようやく手に入れた万年筆を目の前に、何も書かないで一日を終えたら、鬱屈した気持ちがさらに深くなってしまう。
だから、ネガティブな気持ちで書き始めたのです。
 
そうしたら、「あれ? あれれ?」って、書くのが気持ちいいじゃないですか。
今までのイライラはどこへやら。
 
書き心地のなめらかさによって、鬱屈した気持ちがスーっと、消えていくのです。
書いてるのに、消えていく。
書くと消える。
不思議な心地です。
 
もしも、ヒトに渡す手紙を万年筆で書いたら、下心はなくなっちゃうかもしれませんね。
ストレス解消に、万年筆。
いまのところ、ぼくにはありですねー。
 

専門家の職業倫理。

2018.6.29

誤解のある言い方からはじめるけれど、ぼくは、相手によって話し方が変わっています。
話の軸は変えないけれど、話し方の丁寧さや、熱の込め方や、相手への攻撃性など、話す相手によって、変わっていると思います。
むしろ、初対面のヒトの方が、一律の話し方になっているような気がしています。
 
というのも、ここ数年で気づいたのですが、相手の対応によって、相手に対する信頼が、プラスにも、マイナスにも積み重なっていきながら、ぼくの対応も変化しているのです。
 
「面白がってくれてるな」「信用されているな」「いい質問だな」とかね、相手が自分との関係をポジティブに築こうとしている対応だと、付き合いの長さがプラスに働きます。
同じように、「要望しか言わないな」「こちらの助言を聞かないな」「質問ではなくて、意見だな」といった反応が積み重なると、付き合いが長くなるほど、対応はそっけないものになっていきます。
 
そんでね、これって、専門家と関わるときの、肝心なことだと思っています。
専門家と話しているのに、助言を聞き入れないことが多かったら、専門家と関わる意味がないですもんね。
配慮のない要望が多かったりしてもね。
 
そうすると、お金と契約だけの関係になって、自分の利益を確保しようとつとめるのは、当たり前なんですよね。
職業倫理って、契約をすれば果たしてくれるってことではない。
専門家を信じて任せるってことを、依頼人である自分から示さないと、専門家は気持ちよく働けないってもんだぜ。

悩みは細分化しちゃう。

2018.6.27

ヒトから悩みを聞いていると、なにが悩みや不安をつくりだしているのか、気がつきます。
たいていは、大き過ぎるモノを、その人の中に作り出していることなんです。
 
「全員を救えない」とか、「理想とするヒトのようになれない」とかね。
大き過ぎるモノを直視してしまうと、小さな一歩さえ霞んで、見えなくなってしまうようです。
すると、不安感だとか、無力感だとか、切迫感だとか、強迫観念だとかに、自分は負けてしまうわけです。
 
自分は小さいっすから。
だから、大き過ぎる目標は、具体的な事柄になるまで細分化すれば、ひとつぐらいはやれそうなモノが出てくるものです。
このひとつを解決すれば、その分のチカラがついて、違うひとつをやれるようになったりします。
 
ロールプレイングゲームと同じっすね。
今のゲームはしらないけれど、ファミコン世代のロールプレイングゲームは、レベルが足りないところに入ると、敵にボコボコにされてました。
運良く逃れるか、全滅するかして、「この場所はまだ来ちゃだめだ」と分かるわけです。
 
そして、クリアーできるダンジョン(敵のいるところ)からこなして、レベルを上げていって、ボコボコにされた地に再び訪れると、クリアーできます。
勇者の剣を手に入れるもよし、普通の剣でクリアーするのもよし、お姫様を助けるのもよし、世界平和をするのもよし。
ひとつずつクリアーしていけば、レベルアップしているものですよね。