Archive for the ‘心の健康’ Category

重ねる年。

2018.8.9

本当に何でもない話をします。
最近、同年代のヒトたちと会っていて出てくる言葉があります。
 
「俺たちの頃じゃありえない」
 
ま、ぼくらよりも若いヒトたちと仕事をしていて出てくる言葉なんですが、おそらく、どの年代の先輩たちも言ってきたことでしょう。
たぶん、ぼくも言われているはずです。
 
それで、ぼくらはいつ頃から言い始めているのだろうか、と考えてみると、やはり、この歳(36)ぐらいから言い始めているような気がしています。
30歳ぐらいのときに、年上の方々がぼくらよりも若いヒトたちをさして言っているのを聞いていたときも、「そんなものか?」と軽く聞き流していたような気さえします。
 
いやね、何の話でもないんです。
 
ただ、こうやって年を重ねていくのか、と可笑しくもあるのです。
同年代で集まれば、いつの間にか健康の話になったり。
食材に興味を持ち始めたり。
社会への貢献を考えるようになったり。
社会と自分の関わり方の落とし所を見つけたり。
それでもやっぱり、もがいたり。
こういう変化が、年を重ねるってことなのかなぁ、と可笑しくなるのです。

情けない話。

2018.8.2

今日は情けない話をします。
そんな言い訳がましい前置きをしつつ、さすがに疲労が溜まっているようです。
 
心労なのか、身体の疲れなのか、はたまたその両方なのか。
お葬式はしめっぽくならずに終わらすことができた、と思っていたけれど、やっぱり、どこかで「ある」んですね。
特定の言葉で言い表すことは難しいけれど、ちゃんと心の実体があります。
ちょっとした重みのある、でも、ぽかぁっと空いたような実体です。
 
こういうのも含まれるし、直後から仕事だったので、まぁ、単純に休んでいないんですけどね。
身体のあちこちの鈍い痛みと、頭が熱く膨張している感じ、首の付け根あたりの鈍い痛み、、、あ、いま鈍い痛みを二回言いましたね。
なるほど、倦怠感とは違う、鈍い痛みを感じているけれど、頭はオーバーヒート気味ということか。
 
タイミングをみて休まないといけませんね。
やっぱり、ぼくも生き物ですから。
週末は休むつもりだぞ。

イラつくのもヒトの仕事。

2018.7.27

虫の居所が悪いときは誰にでもあるでしょう。
こんな書き始めなのだから、いまのぼくはまさに虫の居所が悪い。
 
こういうことを書いていて改めて気づくけれど、現代ではイラついている感情を見せないのが美徳となっているでしょう。
美徳というよりも、タブーになっているような気がしています。
 
品行方正とまではいかないが、キラキラしていたり、豆腐のような白さを求められているようなね。
この結果が、インスタ疲れのようなものでしょう。
SNSでキラキラしている自分、理想の自分を見せることが、いつの間にか負担になっているような。
理想を言えばきりがないはずなのに、みんな理想郷にしかいないはずの人物になろうとしているでしょう。
自分がなろうとしているだけならまだいいが、他人も理想郷の人物になれないと許されなくなっているような流れになって。
現実に存在しないから理想郷なのにね。
 
ぼくはイラついているとき、少なからず漏れ出していると思います。
そんな状態のぼくに、イラつきを増長させるようなちょっかいを出されたら怒鳴りますし。
触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものです。
あ、火に油を注ぐとも言いますね。
 
なんで、慣用句として残っているのか。
ヒトの周りの道具は進化しているかもしれないけれど、ヒト自身は人類誕生から何ら能力は変わっていないんですよね。
イラつくのもヒトの仕事なんでしょうかねー。

考えるのは偉いのか?

2018.7.26

たくさんの現場で、考える必要のないのことまで考えることを、良しとしているでしょう。
正確には、考えた気になっているだけです。
「俺はこれだけ考えている」というのは、一種の説得力が増す方法かもしれません。
けれど、説得する必要があるのか?とも思うわけです。
 
いいモノが目の前にあったら、いいよね。
美味しい食べ物を食べたら、美味しいよね。
美味しいって一言言うのかもしれないし、黙々と箸を止めずに食べるかもしれない。
もちろん、世界中のヒトが同じように美味しいと思うことはないでしょう。
ある程度のヒト、もっと言えば、届けたいヒトが美味しいと言ってくれるだけでも、その料理は完成されている。
 
目の前にあるモノやサービスも、これと同じことです。
全員が良いと思えなきゃダメと思うと、考えなくてもいいところまで、考えなきゃいけなくなる。
その結果、届けたいヒトに届かないモノになる。
届けたいヒトはだれなのか。
 
こういうことは自戒を込めて、たまーに思っています。
難しいですけどねー。
って、これも考えた気になっているのかってね。

『この世界の片隅に』を思い出す。

2018.7.20

昨年の夏も終わりの頃に『この世界の片隅に』という映画を観て以来、このタイトルを頻繁に思い出します。
しかも、夜、寝るときや、深夜に目が覚めたときに、このタイトルを思い出すのです。
何かイライラしていて寝つけないときも、このタイトルがなぜか思い出されて、腕をさするのです。
すると、スーっと眠りに入ることが多い気がしています。
 
正直に言うと、この映画を見た直後の感想はあまりいいものではありませんでした。
ぼくらが十代〜二十代の頃に流行った「童顔の主人公の頑張る姿とうっ屈さ」感じだな、と思った程度だったのです。
(アニメなのだから童顔は当たり前かもしれませんが)
 
けれども、その後、ぼくは初めて広島に行き、平和記念公園に訪れ、資料館をまじまじと見ました。
広島から帰って来ても、このタイトルが思い出されるのです。
そして、このタイトルが台詞として話されるシーンがあるのですが、そこで最近、気がつきました。
 
「この映画は、見つけてもらった彼女が、見つける番になる映画なんだ」
 
ま、詳しいことは映画を見ればわかるのですが、見つけられ、見つけることが繰り返されるのが、ヒトの一生なんだなと思ったのです。
良いことも、悪いことも、見つけ見つけられることで生じる現象です。
実はこの映画って、ひたすらこの繰り返しなのです。
 
もっと言えば、見つけられることで、ヒトやモノの一生は全うされると言われているようです。
ぼくは誰や何を見つけたかなぁ。
まだ、何も与えることができていないのかもしれません。