Archive for the ‘心の健康’ Category

語学学習の成長の方法。

2020.1.26

大学の生涯学習で英語を習っていることは以前にも書きましたが、今回のコースが始まりました。
今までよりもちょっと上のクラスに挑戦したぼくは、朝から意気込んで「Rock’n Roll!」なんて勢いよく言う始末です。
それで、教室につくと、前回よりも人数が多いことが一目でわかります。
ただ、内容は省略しますが、授業が終わった後、ちょっと拍子抜けした自分がいました。
「あれ?なんか普通だったぞ」と。
前回の超初心者クラスのときに受けた内容から予測していたのとちょっと違ったんです。
「なんかもっと、こうガツガツした感じじゃないの?」「だってレベルアップしているんだぜ」みたいな。
なので、四時間の授業が終わった後、ぼくは気持ちの落ち着きどころを見失っていました。
けれど、これを妻に話したら、流石の一言です。
 
妻「それが成長ってことじゃない。」
 
あぁ、そういうことか。
大学以外でも、ぼくは毎日アプリで自習をしていて、ネイティブスピーカーの話を聞いていました。
聞いて、真似してしゃべって、考えて、答えて。
知らず知らずのうちに、ぼくは成長していたのかもしれません。
ただ、授業は初回だと言うことで、ちょっとスローペースだったのかもしれませんし、様子見だったのでしょう。
 
これにおごらずに、いつも通りの自習をするようにします。
というのも、楽しいですから。
ぼくにとって英語学習は、It’s my hobby. なんですよね。
挑戦とか、目的とか、ビジネスとか、そんな崇高なことじゃないんです。
楽しいこと、好きなことだから、続くんですよね。
これが、サンポノたる由縁でもあります。
散歩のついでに、仕事をする。
それぐらいがちょうどいいと、本当に思っています。
だって、仕事に貴賎なんてないですから。
ぼくらの仕事の価値はあるでしょうけれど、仕事の価値なんて、全部の仕事にあるんだから、競うものじゃありません。
もしも、自分の仕事に貴い価値があると思っているのなら、同時に賎しい仕事があるのでしょう。
ちなみに、アートもデザインも昔は賎しい仕事と思われていたんですからね。
貴い価値があるのなら、賎しい価値もあるということを忘れてはいけません。
自分の仕事が犯罪じゃなくてよかった、ぐらいに思っておけばいいんです。
 
これは何かを習うことでも同じです。
習うとか、本を読むとか、運動するとか、どこかで崇高なことのように思われるけれど、そんなことはなくて、好きだからやるんでしょうに。
成長することが崇高なことになりすぎたら、息苦しくてしょうがないです。
もっと、気楽に。
空を眺めて、深呼吸をして、ゆっくり取り組めば、楽しさは出てくるんだ。
 
あ、そういうことか。
今日の英語のクラスも、そういうことだ。
こういう楽しみ方があるんだな。
空を眺めて、深呼吸をして、ゆっくり取り組む。
散歩と同じだ。
自分自身にも発見がありました。

そのビジネスに愛はあるのか。

2020.1.23

図書館から借りてきて読み始めた本なのに、十分の一も読まずに終えてしまった本で気づいたことがあった。
著者の思い出話がまとめられている本で、一話の長さから推測するに、もしかしたら何かの雑誌に連載されていたのかもしれない。
内容は笑える。
けれど、一話を読み終えるごとに、一抹の嫌味がある。
「自分がこのおもしろさを満喫できていないだけなのか」と疑問にも思って、読み進めてみたが、やはり、後味が悪い。
別に誰かを傷つけるような話ではないのだが、思い出話の登場人物たちに対する愛を感じないのだ。
それで、三、四話を読み終えたところで、図書館に返却しようと思ったのだった。
 
著者はおもしろい人なのかもしれない。
だが、いい人ではない気がした。
何かの本か小説で、「強くなければ生きることはできないが、優しくなければ生きる価値はない」という一節があったと思うが、まさに、優しさを感じなかったのだ。
もっとぼくが敏感になっていれば、優しさを感じていたのかもしれないし、鈍感であればおもしろさを満喫できたのかもしれない。
けれど、今のぼくには、そのどちらもできなかった。
 
これはひとつ勉強になった。
ぼくは、優しさを感じないものが苦手なのだ。
昨年観た映画の中で『イエスタデイ』にとても感動した話は以前にしたが、この映画に出てくる人たちはみんな優しさがあった。
ひとり、マネージャー(プロデューサー?)の女性が悪役として描かれるけれど、その人だって、自分の仕事に対して熱心なだけと思えるほど、優しさのある映画だった。
有名なミュージシャンを題材にした映画はたくさんあって、破天荒ぶりや悲惨さぶりを描きがち(それが事実だから仕方がないけれど)になるけれど、『イエスタデイ』に限って言えば、「音楽っていいよね」や「ビートルズってやっぱいいよね」と素直に言いたくなるハッピーさがあった。
どんなにいいものを作ったり、どんなに便利なものを作ったとしても、大前提に、優しさがないとダメなんだ。
愛、愛こそすべてだ。
そんなことを言いたくなる瞬間が、ぼくにでもある。
 
ビジネスをやろうとするとき、「不安や不満、不便と言われることを解消させることに、人はお金を払う」というのは当たり前の話だが、お金を儲けようと思って不安などを解消させるのか、不安などを解消させたい相手がいるからビジネスをはじめるのか、ではビジネスの当事者として全然異なる。
そこに愛がなければ、やめた方がいい。
そういうことを平気で言えるぼくは、経営者として甘ちゃんなのかもしれないね。

とりあえずはじめてみたらいい。

2020.1.22

「とりあえずはじめてみたらいい」ということは往々にしてある。
こうやって毎日ブログを書いていて、毎日他人が面白がるようなネタがあるかと言ったらそんなことはない。
むしろ、他人にとってみたら、つまらないようなネタしかないとさえ思っている。
じゃあ、他人に役立つネタを載せるかと言ったら、そんな縛りを設定しても、ネタが尽きるのは目に見えている。
むしろ、役立つかどうかなど、その状況になってみないと実はわからないものであり、色んな人が語っている武勇伝も、うまくいった結果に対しての後付けだ。
 
「たまたま運がよかっただけ」というのはよくあるし、運の要素がまったくないことなど、実はない。
だから、ぼくは「運がよかった」と言える人のことを信じる。
だが、運だけで何度もうまくいくはずもなく、その人ならではの失敗からの学びなどもあるはずだ。
 
今の世の中の動きを見ていると、「成功する方法」よりも「失敗の確率を下げる方法」の方が好まれるようだが、これも先述した通り、当たり前の話なのだ。
ちょっと屁理屈になってしまうが、どれだけ失敗の確率を下げたところで、成功するかと言ったらその確証はない。
失敗の確率を下げる方法を売りにしている人は「成功しやすいかもね。だって、失敗の確率が下がっているんだから」ということを言いたいのかもしれないが、実はそこには何の相関もあるわけではない。
 
というのも、物事には成功でもなければ、失敗でもなかったな、ということもあるからだ。
むしろ、「プラスもあったけれど、まぁ、マイナスもあったか」みたいなことが、ほとんどだ。
その中で、どこに着眼し、どこから学び、どこに自分の気持ちを落ち着かせるかが、大事になってくる。
 
先に与えて、その後、得るものがあれば、先に与えたものはコストになる。
そして、世の中のすべては、先に与えるから得るものがあるのだ。
何かを得ようと思ったら、先に何かを出さないと入っては来ない仕組みになっている。
器の容量が大きければ、何でも入るような気がするが、器を大きくすることを先にしておかなければ、何を入れることもできない。
 
こうやって考えると、「先出し、後入れ」が物事の基本であり、そういう意味では失敗とは、先出しだけで終わった場合だろうか。
だが、それはそれで、「先出しだけで終わってしまった」という学びを後入れできる。
そう思えば、やはり先出しだけで終わるということもなく、やはり、どこに着眼し、どこに学び、どこに自分の気持ちを落ち着かせるか、ということになってくる。
だから、「とりあえずはじめてみたらいい」というのは、先出しの考え方なんだな。
ほら、とりあえず、今日の分が書けたでしょ。

信用をマイナスにしないために。

2020.1.20

ぼくは基本的に、ミスでは怒らない。
人はミスをする生き物だからだ。
だが、同じミスを二回したら、「自助努力はしたのか?」という質問と、その内容を聞くようにしている。
もしかしたら、一回目の時点で自助努力について何か話し合っているかもしれない。
それはミスの内容次第だ。
三回目あたりから、「この人はダメかもしれない」と思い始める。
 
もちろん、これにはミスの内容や、ミスが起こる頻度も関係している。
しかし、「ミス」と言われるようなものというのは、大抵が限られている。
遅刻や、間違いや、物忘れなどだ。
つまり、どれも避けられる。
それでも、ミスをするのが人間という生き物なのだ。
だから、怒らない。
 
だが、ここで逆説的なことを言うが、ミスをする生き物だからこそ、ミスをしない人の方を重宝がるのも人間なのだ。
これを忘れてはいけない。
遅刻が多い人よりも、なるべく遅刻しない人の方が好感が持てるし、間違いが多い人よりも、なるべく間違わない人、物忘れが多い人よりも、なるべく忘れない人の方が、それぞれ好感が持てるというものだ。
 
これは健康や清潔感も同じだ。
人は病気になる生き物だが、なるべく健康な人の方が重宝がられる。
人は細菌だらけ、垢だらけの生き物だが、なるべく清潔感のある人の方が好感を抱かれる。
ぼくが人を育てるときに、「仕事を失いたかったら、不健康、不潔、不満を言えばいい」と言うのはそのためだ。
仕事を得るのは、運が作用することもある。
しかし、仕事を失うのは簡単だ。
不健康な人は、健康な人よりも仕事を与えるときのリスク高い。
「業務を遂行できない」というのは、大きなリスクになるし、風邪などの体で健康時のパフォーマンスよりも劣るのは目に見えている。
 
風邪は誰だって引くものだ。
だが、年がら年中、風邪を引いている人に対しては「セルフマネジメントができてない人」という評価を与えられてしまうものだ。
これは社会が変わらなければならないことというよりかは、人間は風邪を引く生き物だからこそ、風邪を引く割合が少ない人の方が重宝がられる、というだけの話だ。
 
ぼく自身、体が強い方ではない。
むしろ、幼いときから持病があったりと、体は弱い方だ。
だが、仕事を休む割合は、かなり少ない方だと思う。
これは、体を壊した経験をしたら、不調を引き起こす体験はしないようにしているからだ。
低体温症になった働き方はもうしていないし、不調を引き起こす人とは会わないようにしている。
腰を痛めないように、重いものは理由を言って、人に持ってもらうようにしている(たとえクライアントであってもだ)。
この季節であれば、人の集まる密閉空間には長く居ないようにしたり、水分をこまめにとるようにしている。
遅刻しないように、朝起きたらその日の交通状況を確認して、15分以上前に到着できるように移動をする。
もしも、5分以上前に現地に到着するのなら、カフェなどに入って時間を潰せばいいだけだ。
隙間時間にやることは、いつもある(メールチェックや語学学習やブログを書いたり)。
 
こういったことは、すべて自助努力だ。
そして、自助努力の結果、ミスや不健康が引き起こされないでいられる。
こういう些細なことが、「信用」となって積み重なっていく。
仕事でパフォーマンスを発揮したいのなら、まずは信用をマイナスにしないことだ。

孫悟空から影響を受けたこと。

2020.1.19

『ドラゴンボール超』の映画を観ていました。
ドラゴンボール世代のぼくにとっては、主人公である孫悟空は身近な存在です。
ここ数年で気づいたことがあり、ぼくは悟空にかなり影響を受けています。
悟空が強い奴と闘うときに「わくわくするな〜」と言う感じ、ぼくはとても共感します。
 
ぼくの業界には天下一武闘会はないけれど、代わりに、アワードがあります。
ぼくが初めてアワードに参加したのが24歳ぐらいだったと思うのですが、気分は「すごい奴に会いたい」っていう感じでした。
腕試しというのもあるけれど、すごい奴と会って、切磋琢磨するのって、少年漫画のストーリーですよね。
功を奏して(?)、ぼくも受賞歴を重ねて、名前を知ってもらっていたり、ぼくの方が知っていたりとかで、知り合いが増えていきました。
知り合いと言っても、クリエイターというのは、一人一人が独立した存在なので、遠くにいながらもちょっと輝きを放つっていうかね。
知人とも、友達とも、仲間とも違う、不思議な存在が増えていきました。
 
その後、ぼくは若手を育てるようになっていきました。
このときに、ぼくが意識しているのは、「力の使い方を教えること」と「ぼくを超える存在として育てること」の二つです。
これも、孫悟空に影響を受けています。
原作漫画の最終話は、天下一武闘会で出会った、自分の才能を持て余している少年を、悟空が育てるという場面で幕を閉じます。
闘いの連続だったドラゴンボールの悟空が、最後は「育てる」ことを選んで終わるのです。
 
しかも、悟空の理由は単純です。
「強く育った少年と闘いたい」
今回観ていた映画でも似たようなシーンがあるのですが、他の登場人物からは「狂ってる」と呆れられます。
でもね、ぼくはそんな悟空の気持ちがよくわかります。
自分がどうしても好きな分野、そして、自分が生きている分野において、自分よりもすごい奴と出会えることは、とても「わくわく」します。
 
すごいと思うためには、自分よりもすごくなきゃいけない。
自分の得意じゃない分野に目を向けたら、そういう人はたくさんいます。
もちろん、別の分野のすごい人たちにも「すげー!」と思いますが、どうやってもその人たちとは競いようがないでしょう。
だから、仲間になったり、友達になったりします。
でも、ライバルにはならないのです。
それが、自分の得意分野で自分よりもすごい奴がいたら、どうでしょうか。
競える相手がいるってこと、ライバルがいるってことは、とてもわくわくすることです。
ぼくが人を育てるとき、あの時の悟空を、よく思い出すんです。