Archive for the ‘心の健康’ Category

わかったこと。

2019.6.18

本当に、人生というのは不思議だと思います。
悪い報せと良い報せが交互にやってくるような。
ただ、その報せの渦中で、ぼくのやることというのは、デザイナーとしての役割と、クリエイターとしての使命を果たしながら、関係者がどうしたら不安を取り除き、喜ばせることができるのかということ。
その喜びの先に、お客さんであるユーザーの喜びがあるからね。
役割は分かるとして、使命ってなんやねん、と突っ込まれそうですが、ぼくにとっての使命は「歴史を引き受けて、次につなげること」だ。
これについては、何度も書いているから割愛するとして、つくづく最近思うのです。
自分の持てるものを与えるのが、自分の人生だったのだって。
ちょっと、おっさんくさいですかね(笑)
ただ、与えたからといって、自分の成長が止まるかといったら、そんなことはなく、たぶん、与えることで成長する時期に入っているんだろうなぁ、という気もしています。
がむしゃらに体を鍛えるような、若さのカードを使い切っているような気もするんですよね。
これからの四十年を現役で生き抜くための、新たなカードを使いながら補充というか、獲得していくのを確信を持ってやっているような心地です。
よくわからんって言われても、まあ、しょうがないです。

『松浦弥太郎の新しいお金術』を読んでいる。

2019.6.17

松浦弥太郎さんの『松浦弥太郎の新しいお金術』を読んでいると、勉強になりながら自分とお金についての考え方が近いことに気づく。
お金のことを「お金さん」と呼ぶほどではなかったが、著者がお金のことをそう呼ぶように、根底にあるのは「お金は大事」という意識があるからだろう。
これは家族は大事、生きがいは大事、仕事は大事、自然は大事といったことと同じであり、そのものに支配されるでもなく、よき友として一緒に生きることだ。
 
ぼくのようにアートやデザインを仕事をしていると「金(かね)じゃない」と言いがちだが、これを言っている人でお金に不自由していない人と、ぼくは出会ったことがない。
それは、クライアントも同様で、そう言っている事業は稼げていないか、従業員や関係者に無理を働かせている。
だから、助成金に頼ったり、NPO法人になろうとするが、自分のやりたいことに他人を巻き込んでおいて、他人のお金に頼ろうとしていることに気づいていない(すべての助成金取得事業者やNPO法人がそうだと言っているのではないことをお間違いなく)。
だから、彼らは自分たちの事業のことを「社会貢献」と声高に叫ぶしかないのだが、社会貢献にならない仕事など、この世の中に存在しない。
そんな訳で、彼らは自分の事業について話をするとき、全然楽しそうに話さないし、聞いている人たちも楽しそうに聞いていない。
 
お金と友達になれないと、人と友達になれないのと同じで、お金のことを悪く言って傷つける人というのは、自分の事業で巻き込む人や関係ない人たちまで傷つけることになる。
ぼくにとってお金はとても大切だし、お土産を買うなどして人を喜ばせるのも好きだ。
学ぶ機会を与えるのも好きだし、旅行も好きだ。
仕事道具や生活用品を選ぶのも好きだし、美味しいものを食べに行くのも好きだ。
このすべてにお金がぼくを助けてくれている。
お金に感謝しない日はない。
今日から「お金さん」と呼ぶ日を増やしていってみようと思った。

いのちをかけた時間。

2019.6.14

つくることについて考えていると、いのちをかけた時間を入れたいんじゃないだろうか、という気がしている。
写真で「凝縮されたものを閉じ込めました」と言っても、制作時間は短い。
海外や山の中に行けば、移動時間も含まれるかもしれないが、今や飛行機や車でビューンと行く時代だ。
そこでシャッターを切って、現像をして、プリントをしても、一枚にかけた手汗のついた時間は短い。
だから、写真集や組写真という分野が発達したとも言えるけれど、「一枚で勝負」というのは難しい分野だ。
ぼくが、写真の上からペイントをするようになったり、色々な工程を踏んで一枚を作るようになったのは、いつも「一枚で勝負したい」という気持ちがあったからかもしれない。
だから、いい一枚ができたとき、寿命を対価として支払ったような気分になるのかもしれない。
長いこと続いているアンティークブームや手仕事ブームも、同じように「いのちの時間」を、人は求めているということじゃないのかな。

一度きりかどうか。

2019.6.13

人と関係を切るということには、ゲージのようなものがあるような気がしている。
「関係ゲージ」というのがあって、これが満タンになると、人はその相手と関係を切ろうとする。
人はというか、ぼくはそんな感じがしている。
関係を切らないまでも、『GIVE & TAKE』に書かれていたような「寛大なしっぺ返し」と呼ばれる、マッチャーの振る舞いをしているような気がしている(本を読まないと、なんのこっちゃーですね)。
 
特にこういうことが起きやすいのは、仕事関係ではないだろうか。
ぼくの話が続いて恐縮だが、ぼくの目安はお節介を焼く回数が減り、最終的には何も言わなくなる、というのを意識的にやっている。
お節介というのは専門家としての視点のときもあるし、経験からの老婆心から何かを言うときもある。
けれど、このときも言うのは一度きりだ。
お節介の良いところは、何度も言う必要がないところであり、一度で相手が聞き入れない場合は、「オーケー、そういう人ね」とこちらも判断できる。
 
思えば、年上の方からたくさんのことを教わることができたのは、ぼくが聞く耳を持っていたからだろう。
一度聞き入れて試してみた結果、「あれ、やってみたんですが、なんかうまくいかなかったんすー」と言えば、次の話のネタにすることができる。
もしかしたら、話は正しかったけれど、自分のやり方が間違っていたのかもしれない。
すると、次から次へと教えてもらえる。
けれど、お節介に対してはじめから「いや、私はこうなんです」と対抗してしまえば、相手からしたら「馬鹿だなー」と思われるだけだろう。
昨日の投稿とも似てきたが、結局は「馬鹿だなー」と思われる回数が、関係ゲージを満タンに近づけるのだろう。

強い立場ほど丁寧に。

2019.6.12

いい年の取り方を考えていると、「こうありたい姿」を思い浮かべるといいと思った。
僕で言えば「知らないことへのアレルギーが低い人」と「尋ね方が上手い人」に憧れる。
 
知らないことにアレルギーが強いと知ろうとしなくなる。
そうなると好奇心がなくなり、物事をフラットに観察できなくなるし、そもそも生きることが退屈になるような気がしてならない。
あくまでも僕の場合だが、義務で仕事をするのも嫌だし、ましてや生きることを義務的になるのは最悪だ。
だから、好奇心をなくさないためにも、自分が知らないことへのアレルギーは低い方がいいだろう。
 
だが、たとえ知ろうとしても、尋ね方が下手だと、教える方も教えたくなくなるものだ。
年を取れば取るほど、教わる相手は自分よりも若い人になる。
年上ってだけで、相手はつまらなく思うものだ。
上司や両親であっても面倒くさいと思うのが日本人らしさではないだろうか。
それが他人になれば、さらに「どうでもいい」存在になっているわけだ。
そんな、ただでさえどうでもいい面倒くさい相手になっている自分が相手に教えてもらうとき、言葉遣いや返信速度を気にしなきゃいけないのは自分の方だと思っている。
 
具体的には「教えてください」ではなく、「教えていただけないでしょうか」というお願いになる。
こういう言葉遣いは、上司になってしまっているときでなく、お客になるときも同じように、自分が上の立場になる際に気をつけるようにしている。
返信しない馬鹿、謝れない馬鹿、感謝の伝え方を知らない馬鹿と思われるのは、弱い立場の人たちからそう思われるものだ。
よっぽど、その人と縁を切りたいと思っていない限りは、自分の立場が強いときほど、丁寧に接した方がいい。
これは、常に気をつけていることでもある。