Archive for the ‘心の健康’ Category

天候のこと。

2019.10.12

今年の9月から英語を習っているのですが、11日の土曜日は休講となりました。
ま、いま日本に来ている台風です。
金曜日は夕飯の買出しでスーパーに行ったら、買い溜めなのか商品が届いていないのかは分かりませんが、棚に陳列されているはずの商品が、かなりなくなっていました。
震災のときとまではいかないけれど、卵も肉もなくなっていて、試しに惣菜パンのコーナーを見たら、やっぱり品切れでした。
いや、いいんですけど、「備えあれば憂いなし」と言うけれど、「そんなにかい」とも思うわけで。
停電は大変だったみたいだし、「もしも自分の地域で起きたら…」とも心配したのかもしれませんが、もうちょっと泰然としているとかできないですかねー。
少なくとも、仮に想定している災害が起きたとして、「自分たちは買い溜めしたから良かったね〜」と言いながら、ぬくぬく生活できるのでしょうか。
いや、そうしたいから、買い溜めをするのかな。
ま、商品が届いていないだけかもしれないけれど。
 

話は変わり、11月にドイツを訪れる予定なのですが、現地で着る服を、どうしようか迷っています。
「1ヶ月ほど日本よりも気温が低いこと」は、調べていて知っているのですが、なかなか予想を立てられなかったのです。
そもそも、12月にどれだけ着込んでいるかとか、どの上着を着ていたかなんて、覚えていませんから。
だから、夏には相当悩んでいたのですが、今頃になって、朝、日陰を歩いていると予想がついてくるのです。
37年間経験していることなのに、忘れていることもあるんですよね。
忘れるから悩むんですが、忘れるからまた楽しいこともあるわけです。
秋刀魚の美味しさとか、焼き芋の美味しさとか、おでんの美味しさとか、覚えているようで忘れているから、また食べたくなるんです。
思い出してくるというのは、徐々に輪郭が形作られてくること。
完成された輪郭を思い出すのではなく、おぼろげな部分があるから、また楽しみになるんだ。

小さな親切ができる身体。

2019.10.7

人と一緒に住むようになってよかったことのひとつに、小さな親切をしやすいことがある。
親切というのは、基本的に、する方が労働のコストを支払っている。
労力と時間のコストを支払い、ときにはお金のコストを支払うときもあるかもしれない。
そのコストを支払って得られるのは、親切をしなかった時の後ろめたさをなくすことぐらいだ。
何故ならば、見返りを期待していたら、それは親切とは言えないだろう。
 
ぼくは一人暮らしが長かった。
一人暮らしのときに行ういいことは、自分自身に対して必ず見返りがある。
だから、そのときに行う自分へのお節介というのは親切ではない。
親切とは、誰かと過ごすことで、経験出来ることなのだ。
同様に、仕事現場でも親切は可能だが、出世狙いのあざとい人もいたり、現代はチームワークの時代でもあるので、強制的な面も持ち合わせており、これもまた行うことを難しくする。
つまり、親切とは、まったくの赤の他人や家族のような、見返りを期待しない相手にこそ純粋に行えることなのかもしれない。
 
前置きが長くなってしまったが、小さな親切ができない状況に長くいると、いざやろうと思っても、動き出しが鈍くなる。
親切をする状況というのは、一瞬過ぎれば、機会を逃しやすいものだ。
だから、親切の動き出しが鈍くなると、やろうと思っても親切ができない身体になる。
 
ところが、人と一緒に住むと、鈍いなりにも小さな親切を重ねる状況に身を置くことになり、鈍くなった身体が徐々にほぐれて、すんなり動けるようになる。
たとえ小さなことでも、親切をするというのは、気持ちがいいものだ。
偽善かもしれないが、それでも、後ろめたさを積み重ねるよりかは、「ありがとう」と言ってもらえることの方が、生きていて気持ちがいいものだ。
 
「中身が丸くなった」と言われることが多くなったが、それはやはり、妻のお陰だろう。

おいしいご飯は、運を引き寄せる。

2019.10.6

外食での「おいしい」とか「まずい」とかってあるでしょう。
初めて訪れるお店では、どんなに口コミを丹念に見ても、そのお店で自分が食べる料理が自分にとって「おいしい」か「まずい」かは、誰にもわかりません。
今日は、何がおいしいか、まずいかは置いといて、ひとつ気がついたことがあります。
 
それは、「おいしいものを食べれたときは、運が向いている」ということです。
 
スピリチュアルかどうかは知りませんが、調子が悪いときほど、外食でまずいものを引き寄せてしまいます。
引き寄せるというのは、博打的な言い方をすると、引き当てるとも言えるでしょう。
運が向いていないときは、悪いものを引き寄せてしまい、当たりくじを引き当てられない代わりに、ハズレくじを引き当ててしまいます。
例えば、行こうと思っていた店舗が臨時休業だったりと、無駄足をさせられたり、食事関係でなくても、つまらない話を聞かされたり、行く先々で騒音に悩まされたり、失礼な態度をされたり、普段はしないようなミスをしたり、ミスを重ねられたり、数え上げたらキリがないほど、重なるときは重なるものです。
こういうときに外食をすると、心の底から「おいしい」と言える料理と出会えないことがほとんどです。
仮に、自炊をしても、イライラしていたりするので、味付けが普段よりもしょっぱかったり、味のピントが外れていたりします。
つまり、自分の状況がまずいときというのは、食べるものも、まずいものを引き寄せてしまうんです。
 
そんなとき、ぼくがするのは、「必ずおいしいものを食べる」ということ。
当たりくじを引き寄せられない状況にあるのなら、どんなに小さな当たりだとしても、高い確率で当たりくじを引き当てられるところに行きます。
金曜日はまさにそんな状況だったのですが、おいしいハンバーグを必ず提供してくれるお店に行き、ちょっとだけ運を引き寄せる方向に、自分を持って行きました。
 
前菜にクリーミードレッシングがかかった卵付きサラダ。
メインは濃厚デミグラスソースのハンバーグに、付け合わせがほくほくベイクドポテトと、バターが香るインゲンのグラッセ。
食後に自家製デザート二種の盛合せと、生クリーム入りのアイスコーヒー。
 
ぼくの中で鉄板のランチです。
味を知っているのにも関わらず、食べながら、思わずうっとりと目を閉じちゃいました。
それぐらい、当たりを引き当てていなかったのです。
このランチを平らげて、家に戻り、仕事を進め、就寝すると、お客から嬉しいメールが届いていました。
やっぱりね、おいしいものを食べるのって、「引き寄せる」ことでもあります。

協力できることは。

2019.10.1

おもろいを考えるというのは、自分も喜んで、関係者も喜んで、お客さんや周囲の人も喜んで、を考えることだ。
一言で言っちゃうと「三方よし」なんだけどさ、いつも一言で考えてしまうと、ちょっとしたおまけなんだけど、実は後々すごく大事になることなんかが、抜け落ちたりするわけだ。
三方よしの概念は、日本では戦国から江戸時代にかけての近江商人が起源と言われているが、ぼく自身はいつから、この概念を考えるようになったのだろうか。
 
というのも、三方よしという言葉を知る前に、冒頭のことは考えていた。
写真家として名前が売れてくる一方で、すり減っていく自分や周囲、さらには社会に対して、何かがおかしいと気づき始めたときには、「どうにかしなきゃいけない」という思いがあったはずだ。
キャリアアップ、スケールアップしているはずなのに、何も得ていない。
それをどうにかしようと、さらに力を求めた。
考える力、ものづくりの力、稼ぐ力、無駄に衝突しない力などなど。
人間的に丸くなりながら、クリエイターとしての成長をしてきた。
事務所勤務時代の怒鳴り散らす社長や、生産性の低い環境を変えようと、再独立をした。
 
そして今、依頼人から感謝をされたり、それほどの不自由を感じない生活環境となり、クリエイターとして円熟味が増してきたと、自分なりに感じる。
自分に才能があるかどうかは分からないが、考え続けながら、作り続けた結果なんだと思う。
休まず、動いてきた。
そして、考える内容が、冒頭の「自分も、関係者も、お客さんや周囲の人も喜ぶこと」だったのだ。
アートでも、デザインでも、ビジネスでも同じなんだ。
「ぼくに協力できることがあるのか」
これなんだ。

喜ばれたら、得るものがある。

2019.9.30

世の中には「ファン」という存在がいる。
スポーツチームのファン、ミュージシャンのファン、漫画のファン、シェフのファンなど、すべてのジャンルにファンという存在がいて、ファンの人たちが彼らの収益を支えている。
宗教だって、信者は信仰対象のファンと呼べるかもしれないし、信者によって支えられているという意味では、信者はファンと言える。
MacやiPhoneを売っているAppleだって、今は死後になっている「マカー」というファンによって、長く支えられてきた。
そういう意味でも、人が食っていくために、ファンは欠かせないのだ。
 
けれど、ファンがいても食えないジャンルがある。
それが日本の「アート」だ。
ぼくも長いこと写真家としてアートの業界にいて、当時としては名の知れた若手の一人だったから、「ファンのような人」がいた。
展示があれば来てくれるし、HPのブログもチェックしてくれたり、展示会場で会えば、とても驚き、恐縮してくれる。
けれど、その人たちが、ぼくらの収益を支えてくれていたかといったら、まったくそんなことはなく、活動を続ければ続けるほど、ぼくらはすり減って苦しくなるのだ。
美術館で展示をしたり、海外で展示をしても、この苦しさは一向に変わらない。
 
アートで作品を購入する人のことは、コレクターと呼ばれる。
コレクターはファンであるときもあるが、若いアーティストの作品を買って、その後、価値が上がったときに売るという投機目的で購入する人も大多数いる。
ぼくもコレクターから作品を購入されていたが、それでも苦しさは変わらないのだ。
 
その後、ぼくはデザインも手がけるようになって、依頼によってお金を得るようになった。
収益を支えてくれるという意味ではファンと同じだが、ファンと言うよりも、家族のようだったり、友達のようだと言った方が、近いような気がしている。
本当に、二人三脚とはこういうことだと知るようになった。
依頼仕事で写真が必要になって、ぼくが撮った方がいいものなら、ぼくが撮影しているし、依頼人がいるからと言って、デザインとアートが違うスタンスかと言われたら、むしろ同じスタンスで作っている。
 
というのも、ぼく自身のわがままで作品を作ったことなんて、大学時代の数回しかないからね。
写真家でしかなかったときも、世の中に必要となるもの(そう思えるもの)を作っていたし、たとえ依頼でも、作る必要のないものを作ることはしない。
依頼仕事であろうとなかろうと、その点は同じなのだ。
そして、感謝をされたり、喜ばれたりする点も一緒なのだ。
違うのは、喜ばれると収益があったり、他の仕事につながったりすることだ。
これって、社会生活の基本なんだよな。