Archive for the ‘おすすめ’ Category

休日に「目黒シネマ」。

2018.8.7

休日にすることの候補としてかなりの頻度で挙がる「目黒シネマ」さん。
自称「映画好き」「映画オタク」「映画マニア」「映画フェチ」「映画変態」、、、こういったヒトたちのツボをおさえるのが上手いんだ。
 
今回は着ぐるみが見られなかったけれど、手作りのパンフレットは健在。
こういうことに洗練さを加えては台無しになる。
 
映画館という暗闇の部屋には、たった2時間の濃密なドラマがあるんだ。
現実にはないドラマを求めるヒトたちが集う場所だ。
若者も中年もひとり客が多いのが、名画座らしいのかもしれない。
もちろんカップルで来るのもオーケーだぜ。
持ち込みもオーケーだぜ。
つまり、名画座でもあるけれど、ぼくらがまだ中学生だった頃の大きな映画館と同じってこと。
 
さすがに、劇場内は禁煙になっているけれど、やかましいマナー広告はない。
だって、劇場の外に一歩でも出れば、マナーの喧騒に溢れているだろう。
そんなに騒ぎ立てなくたって、映画好きが集まれば、映画のためのマナーは守られるんだぜ。
 
スナックにペプシ。
暗闇のなかのドラマ。
2時間だけの夢の世界。
椅子が揺れなくても、3Dメガネがなくっても、映画はほんっとうにいいもんですね〜。
 

『この世界の片隅に』を思い出す。

2018.7.20

昨年の夏も終わりの頃に『この世界の片隅に』という映画を観て以来、このタイトルを頻繁に思い出します。
しかも、夜、寝るときや、深夜に目が覚めたときに、このタイトルを思い出すのです。
何かイライラしていて寝つけないときも、このタイトルがなぜか思い出されて、腕をさするのです。
すると、スーっと眠りに入ることが多い気がしています。
 
正直に言うと、この映画を見た直後の感想はあまりいいものではありませんでした。
ぼくらが十代〜二十代の頃に流行った「童顔の主人公の頑張る姿とうっ屈さ」感じだな、と思った程度だったのです。
(アニメなのだから童顔は当たり前かもしれませんが)
 
けれども、その後、ぼくは初めて広島に行き、平和記念公園に訪れ、資料館をまじまじと見ました。
広島から帰って来ても、このタイトルが思い出されるのです。
そして、このタイトルが台詞として話されるシーンがあるのですが、そこで最近、気がつきました。
 
「この映画は、見つけてもらった彼女が、見つける番になる映画なんだ」
 
ま、詳しいことは映画を見ればわかるのですが、見つけられ、見つけることが繰り返されるのが、ヒトの一生なんだなと思ったのです。
良いことも、悪いことも、見つけ見つけられることで生じる現象です。
実はこの映画って、ひたすらこの繰り返しなのです。
 
もっと言えば、見つけられることで、ヒトやモノの一生は全うされると言われているようです。
ぼくは誰や何を見つけたかなぁ。
まだ、何も与えることができていないのかもしれません。

傾聴力という謙虚さ。

2018.7.18

昨日の続きで、本田選手と村井さんの対談で、また気づいたことがありました。
「傾聴力=謙虚さ」と本田選手が話していて、これ、依頼関係でも同じだと気づいたのです。
 
ぼくが頻繁に言っている慣用句に「餅は餅屋」があります。
簡単に言うと「その道の専門家には素人は敵わない」という意味ですが、依頼事が円滑に進むには、「傾聴力」が専門家と依頼人である素人の両方に必要ですし、そのためには、お互いの事情は知らないという謙虚さが根本に必要です。
 
特にぼくらの仕事というのは、クリエイティブでもデザインでも本質は「伝える」ということです。
依頼人が伝えたいことと、伝えられる生活者の聞きたいこと、このふたつを繋ぐ橋を作るのがぼくたちの仕事です。
簡単に言うと「伝え方」をつくることです。
だから、悪い依頼人だと、どう考えても悪いことなのに、ぼくらの技術を使って、生活者に良く見えるように伝えて欲しいと依頼してきます。
ま、一種の「詐欺」ですね。
 
もっと多いのが、「伝える」を依頼しているのに、依頼者たちは彼ら自身のことを「伝えるが下手」とは思っていないのです。
思ったことすらない、と言ってもいいかもしれないです。
 
ここで最初の話に戻りますが、「伝える」を依頼していることへの「謙虚さ」が生まれにくくなっているのです。
クリエイターを作業をする人と思っていると絶対に生まれない「依頼人としての謙虚さ」。
要望を言っているだけなら、子どもと一緒ってね。

傾聴力、主張力、オーナーシップ。

2018.7.17

prime videoで放送している『KEISUKE HONDA CAFE SURVIVE』を見始めたのですが、これがとても面白いです。
5代目Jリーグチェアマンである村井満さんと、本田圭佑選手の対談のエピソードを見たのですが、教育論に展開。
 

傾聴力に主張力。
オーナーシップのトレーニング。
メンタルの回復力。
サッカーへの恩返し。
人間性の土台に、スキルを乗せる。
スキルは後付け。
まずは人間性。
地域に根付かなければ意味がない。

 
もうね、本当にその通りなんです。
この流れで自分の話をするのは恐れ多いですが、ぼくが以前の会社に入った頃にやっていたことを思い出しました。
それは、「周囲の先輩が言うことを全部やってみて、自分なりに考えてから、上司に見せる案を決める」ということです。
 
やってみる案には、もちろん自分と上司が話して決めた案もあります。
ほとんどの若手は、その案だけをやって終わらせるのです。
すると、良さそうなものができても、それは上司に導かれているから「自分の案」として落とし込めていないのです。
だから、力がつくのが遅い。
 
けれども、自分でチェックしているときに、他の先輩たちがちょっかいをだしてくるのですが、それをね、ひとまずやってみるのです。
先輩たちはアートディレクターというプロフェッショナルだから、ちょっかいひとつとっても専門性があります。
生半可な素人の意見とは違うのです。
そんな専門的なちょっかいを一通りやってみるのです。
そして元の案と比べる。
どんな意味があるのか、と考えるのです。
そうすると、上司に導かれていただけのものが、新たな気づきとともにブラッシュアップできたりするんです。
抜け落ちていたピースをはめ込んで、パズルができるようなね。
だからね、上司に見せるときには、ぼくからの提案になるんですよ。
上司というオーナーを超えて、自分が関わった案は自分がオーナーになっているのです。
 
こういうやり方って、時間は人よりもかかるけれど、めちゃくちゃ成長スピードは早いんですよね。
むちゃくちゃな残業をしていたあの頃の成長スピード。
そういうことを思い出しました。

『ヴェニスの商人の資本論』で気づいた。

2018.7.15

昨夜、寝ながら発見したことがありました。
「もしかしたら、俺はキリスト教的な人間かもしれない」と。
資本主義の利益というのは「差分」によって生まれます。

たとえば、『ヴェニスの商人』で言えば、高利貸しのシャイロックは、「貸したお金」と「将来返済されるお金」の価値の差分を利子として利益にしています。
主人公のアントーニオは、兄弟のような友人のバッサーニオへのお金の貸し借りに利子はつけていません。
つまり、アントーニオは金貸しではないんです。
 
1ポンドの肉を取られようとしていても、そこでバッサーニオに対して利益を貰おうとはしていません。
恨み辛みも言わない。
 
そんなアントーニオも、世界中に船をだして、貿易をして利益を出しています。
つまり、あっちの場所とこっちの場所の、物の価値の差分を利益にしています。
商業資本主義です。
 
ちゃんと利益を出しているアントーニオは、シャイロックのことを敵として蔑んでいます。
シャイロックが高利貸しだから?
違います。
 
アントーニオがキリスト教的であり、シャイロックがユダヤ教的だからです。
先日、キリスト教の教えに、「兄弟間で利息をとってはならない」とあり、「他国の人から利息をとってもよい」という、「兄弟盟約」というものがあることを知りました。
ここで、「あっ!」と納得。
 
キリスト教であるアントーニオに、バッサーニオから利益を得ようという考えがそもそもなく、異教徒である世界中の人たちから利益を得ることは教えとして許されているんだ。
そして、異教徒であるシャイロックのことを、敵として認識することで、シャイロックの利益となる契約を結べるんです。
バッサーニオのために保証人になっても、アントーニオには利益が生まれないのに。
あるのは、バッサーニオの縁談が上手くいったときに芽生える「兄弟、よかったな〜」という感情。
 
すっごい長いですが、いままでのが前振りです。
本題はここから。
 
実は、ぼくはビジネスの中でヒトを紹介しても、「紹介料」ってもらっていないのです。
業者から見積もりを出してもらっても、特に上乗せして依頼人に請求していないですし。
つまり、「誰かをつなげる前」と「つなげた後」の価値の差分を、利益にしていないのです。
 
もっと言えば、依頼人の事業のことを、四六時中考えています。
ま、それはちょっと言い過ぎですが、少なくとも、「コンサル料」や「ディレクション料」や「企画料」と頂戴している金額からすると、とても少ない料金です。
時給計算したら、完全に東京都の最低時給は下回るでしょう。
時給1円かもしれない。
ま、それも言い過ぎですが、これで全然利益になっていないんですよねー。
 
なんでそうまでして仕事ができるんだろうと考えると、よく言っていることにぶつかります。
 
「依頼人を家族と思え」
「家族と思えないのなら引き受けるな」
 
これね、会社勤めしていた頃から、周囲の仲間たちに言っていたことです。
ぼくらの仕事は、儲けようと思えば、いくらでも自分の土俵に持ち込んで儲けることができるんです。
でもね、それをしたところで、依頼人のためにはならない。
 
だから、本当に依頼人のためになることを考えたら、これは依頼人を家族と思えなきゃ、やってらんないんですよ。
依頼人にとって、耳の痛い説教もしなきゃいけないし。
説教ってね、言うのはめちゃくちゃ面倒臭いんですよ。
説教じゃなくても、何かを話すのって、めちゃくちゃ面倒臭いんですよ。
もうね、単純に利益のためにやってたら、違う仕事やります。
 
そんなことを考えていて、先日知ったキリスト教の教えと、『ヴェニスの商人』の関係性を知って、「あっ!」って結びついたのです。
それが冒頭の、「俺はキリスト教的な人間かもしれない」。
こんな仕事をよく続けてこれたと思いますし、敵と思った人間への協力はいっさいしないですしね。
「縁故契約はするな」というのはビジネスの常識ですが、「縁故=家族、兄弟」、「契約=利益追求」なので、「するしない」に関わらず、そもそも成立しないんです。
ま、世界中の宗教は同じことを言っていると思いますが、「キリスト教的」と感じたのは、自分でも驚きましたねー。