『ヴェニスの商人の資本論』で気づいた。

2018.7.15おすすめ, ビジネスの健康, 日々のこと

昨夜、寝ながら発見したことがありました。
「もしかしたら、俺はキリスト教的な人間かもしれない」と。
資本主義の利益というのは「差分」によって生まれます。

たとえば、『ヴェニスの商人』で言えば、高利貸しのシャイロックは、「貸したお金」と「将来返済されるお金」の価値の差分を利子として利益にしています。
主人公のアントーニオは、兄弟のような友人のバッサーニオへのお金の貸し借りに利子はつけていません。
つまり、アントーニオは金貸しではないんです。
 
1ポンドの肉を取られようとしていても、そこでバッサーニオに対して利益を貰おうとはしていません。
恨み辛みも言わない。
 
そんなアントーニオも、世界中に船をだして、貿易をして利益を出しています。
つまり、あっちの場所とこっちの場所の、物の価値の差分を利益にしています。
商業資本主義です。
 
ちゃんと利益を出しているアントーニオは、シャイロックのことを敵として蔑んでいます。
シャイロックが高利貸しだから?
違います。
 
アントーニオがキリスト教的であり、シャイロックがユダヤ教的だからです。
先日、キリスト教の教えに、「兄弟間で利息をとってはならない」とあり、「他国の人から利息をとってもよい」という、「兄弟盟約」というものがあることを知りました。
ここで、「あっ!」と納得。
 
キリスト教であるアントーニオに、バッサーニオから利益を得ようという考えがそもそもなく、異教徒である世界中の人たちから利益を得ることは教えとして許されているんだ。
そして、異教徒であるシャイロックのことを、敵として認識することで、シャイロックの利益となる契約を結べるんです。
バッサーニオのために保証人になっても、アントーニオには利益が生まれないのに。
あるのは、バッサーニオの縁談が上手くいったときに芽生える「兄弟、よかったな〜」という感情。
 
すっごい長いですが、いままでのが前振りです。
本題はここから。
 
実は、ぼくはビジネスの中でヒトを紹介しても、「紹介料」ってもらっていないのです。
業者から見積もりを出してもらっても、特に上乗せして依頼人に請求していないですし。
つまり、「誰かをつなげる前」と「つなげた後」の価値の差分を、利益にしていないのです。
 
もっと言えば、依頼人の事業のことを、四六時中考えています。
ま、それはちょっと言い過ぎですが、少なくとも、「コンサル料」や「ディレクション料」や「企画料」と頂戴している金額からすると、とても少ない料金です。
時給計算したら、完全に東京都の最低時給は下回るでしょう。
時給1円かもしれない。
ま、それも言い過ぎですが、これで全然利益になっていないんですよねー。
 
なんでそうまでして仕事ができるんだろうと考えると、よく言っていることにぶつかります。
 
「依頼人を家族と思え」
「家族と思えないのなら引き受けるな」
 
これね、会社勤めしていた頃から、周囲の仲間たちに言っていたことです。
ぼくらの仕事は、儲けようと思えば、いくらでも自分の土俵に持ち込んで儲けることができるんです。
でもね、それをしたところで、依頼人のためにはならない。
 
だから、本当に依頼人のためになることを考えたら、これは依頼人を家族と思えなきゃ、やってらんないんですよ。
依頼人にとって、耳の痛い説教もしなきゃいけないし。
説教ってね、言うのはめちゃくちゃ面倒臭いんですよ。
説教じゃなくても、何かを話すのって、めちゃくちゃ面倒臭いんですよ。
もうね、単純に利益のためにやってたら、違う仕事やります。
 
そんなことを考えていて、先日知ったキリスト教の教えと、『ヴェニスの商人』の関係性を知って、「あっ!」って結びついたのです。
それが冒頭の、「俺はキリスト教的な人間かもしれない」。
こんな仕事をよく続けてこれたと思いますし、敵と思った人間への協力はいっさいしないですしね。
「縁故契約はするな」というのはビジネスの常識ですが、「縁故=家族、兄弟」、「契約=利益追求」なので、「するしない」に関わらず、そもそも成立しないんです。
ま、世界中の宗教は同じことを言っていると思いますが、「キリスト教的」と感じたのは、自分でも驚きましたねー。
 

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