Archive for the ‘初心者のためのデザイン心理’ Category

精度を高めるために必要なこと。

2020.1.8

ひとつの職業の中には、いろいろなタスクがある。
ぼくはこれを細切れにして、ちょっとずつ進めている。
そうすると、納期に遅れるということは起きないし、試行錯誤の回数を増やすことができる。
一人で行う試行錯誤の回数が増えることのメリットは、制作物の精度が高まることだ。
精度というのは、回数によって高まる。
 
最近では、チームで集まってあーだこーだ話して進めるやり方が奨励されているようだが、このやり方で精度が高まることはない。
その理由は、素人が会議にいても大したことは言えないからだ。
例えば、医療現場の会議で、素人が混ざっていることはないだろう。
ぼくらの仕事もこれと同じであり、自分の強みを活かせる役割を全うした方が案件の精度は高まるものだ。
社会の営みであるデザインにおいて、デザイナー以外が会議の席に座っても、主観的な好みしか話せずに終わる。
 
これはデザイン以外でも同じだ。
自分にできないことは、その道の専門家を信じて任せた方がいい。
そこに横やりで口出しするなど、クオリティが下がるだけだ。
進捗確認の報告会などの無用な会議をしていると、人は何か話した方が仕事をした気になるので、あーだこーだ言っては、どんどんクオリティを下げる。
そんなことをしない方が、その道の専門家たちは自ら試行錯誤の回数を増やしては、精度を上げてくれる。
 
精度を上げるために必要なもうひとつの要素は、締め切り前にまとめてやろうというタイプではダメだ。
そのときに体調不良や事故によって、パフォーマンスが下がるかもしれないし、そうならなくても、急いで作ったものは、見落としなどのつまらないミスをしやすくなるのが人間だ。
焦れば余裕がなくなる。
余裕がない状態の人は、周りにいる人たちにも、余裕のない当たりをしてしまう。
そして、余裕がない状態で、創造性が発揮されると思っているのは一種の幻想だ。
大抵、そのような人は「決められたもの」しか作れない。
進めていくうちに気づくような穴があったとしても見過ごしては、「こういう決まりだったので」という風に機械のように機転が効かない。
つまり、作るうちに精度を高めることができないのだ。
もしも、時間がない中で試行錯誤の回数を増やそうと思えば、犠牲になるのは睡眠時間だ。
しかし、睡眠時間を削って失うのは判断能力であり、結局は精度を下げることになる。
さらに、つまらないミスを引き起こす。
 
作っている間も、時間は進んでいく。
ぼくたち人間の営みで優れているのは学習であり、学習は試行錯誤によって達成されていく。
つまり、作っている間に精度を高められない人というのは、時間の経過とともに学ぶことができない人であり、将来性も低くなっていく。
ぼくの事務所勤務時代にもいたが、そういう人は決まって同じようなミスを繰り返していた。
すると、ミスをカバーするために他の人たちの時間も奪っていく。
そこでは時間の他に、突発的な疲労感や人件費といったコストも発生する。
だから、締め切り前にまとめてやろうとしている人は、自分の首を絞めるだけでなく、周りの人たちの首も絞めている。
 
案件や企画、事業の精度を高めたいと思ったら、各方面の専門家が勝手に試行錯誤の回数を上げてくれる環境を与えることだ。
そこでは余計な口出しもいらないし、無駄な報告会も必要ない。
自分たちのプライドが高ければ高いほど、猜疑心も高くなるし、何でも自分たちで決めないと気が済まなくなる。
信じて任せるのには、強さが必要だ。

値下げを期待すると失敗する理由。

2020.1.6

「デザインに力を入れたい」と言うクライアントは多いが、大抵は失敗する。
それは、クライアントのお金の掛け方が間違っているからだ。
現代人は機能にお金を払い、コストパフォーマンスをとても気にしては、金額が安い方を選ぶ。
このようなお金の使い方では、お金をかけて作ることに意味を見出すのは難しい。
 
「なるべく安く手に入れよう」という思惑がある人に対しては、「なるべく高く売ろう」という人がやってくる。
なぜなら、安く手に入れようと考えている人の周りには、価値を提供できる人は集まらないか、いたとしても離れていくからだ。
そうすると、必然的に、高く売ろうという人が残るか、集まるという仕組みだ。
 
価値を提供する人というのは、自然と価格が高くならざるを得ない。
価値を提供する人は、「人の性質」や「歴史」を学び、「技術」を研鑽してきた人だ。
これらを駆使して、価値を提供する専門家となる。
何にお金を払うかは人の自由だが、これらに対してお金を払えない人は、提供される価値も理解できないのだから、専門家ともやりとりができない。
繰り返しになるが、だから、安く手に入れようとする人の周りには、価値を提供する人ではなく、高く売ろうとする人だけが集まるのだ。
 
それでは、今まで安く手に入れようとしていた人が変わるには、どうしたらよいのか。
それは、人間を知ることが重要だ。
 
知覚情報には、存在の情報と価値の情報があり、人々が欲しいと思うものには、この二つの情報が備わっている。
たとえばオムライスを提供している飲食店の看板の場合、「オムライスの情報=存在の情報」となり、「他のお店のオムライスではなく、うちのお店のオムライスは食べる価値があると思われる情報=価値の情報」となる。
 
構図も悪く色あせたピンボケ写真を載せているのは、存在の情報しか伝えていないことになる。
一方で、構図やボケみ、色味などが適したシズル感のある写真は、存在の情報に加えて、おいしそうと思われる価値の情報を伝えている。
価値の情報になるのは、おいしさだけではない。
健康は人間がお金を払いやすい情報のため、たとえば「化学調味料無添加」や「無農薬野菜でつくられた」などの情報も、価値の情報となる。
また、単に「オムライス」と書いているよりも、「ふわとろ卵のオムライス」や「新鮮タマゴのオムライス」と書いている方が、人は選びやすくなる。
しかし、何でもかんでも情報を載せようとすれば、品のない安っぽい情報となる。
 
こういったことを、我々デザイナーたちは毎日行って、技術を高めながら仕事をしている。
 
しかし、コストパフォーマンスを気にして安い方にお金を出している内は、価値の情報が何なのか知らないままだ。
知らないままの人がクライアントになるから、日本のクリエイティブは低価格になり、そのような現場ではデザイナーやコピーライター含め、すべてのクリエイターが育たなくなる。
教えてもらうのはきっかけに過ぎない。
その後、内省をしなければ、価値の情報が何なのか、理解することは難しい。
 
たとえカラ元気でも笑っていると、本当に楽しい気分になるように、わからなくても高いお金を支払うことから学びはじめるといい。
同じ内容で安く学ぼうとする限り、本当の学びはできない。
 
もしも、学び続けてもわからないというのであれば、たったひとつの行動を変えるだけで、学びが身につくようになる。
それは、「値下げを期待しない」ことだ。
正月明けの日本では、様々なものがセール価格となっているが、そういった「値下げ」を期待せずに購入することで、「価値」がわかるようになる。
大量に製造される商品と、専門家によるサービスとでは、価格の付け方は異なるが、それでも提示された金額から値下げを期待しないことを学ぶことはできる。
 
そもそも、医者の診察を受けて、会計のときに値下げ交渉などしないだろう。
価値を提供する専門家というのは医者の仕事と同じであり、ビジネスの現場だからといって、値下げを期待するなどということが厚かましいのだ。
価値を提供してくれる人と出会いたいのなら、ちゃんとお金を支払うこと。
銀行や資本会社から借金ができないのは、経営者に信用がないからだ。
「この人はお金を返済できる」という信用があれば、お金を借り入れることが可能であり、そうすれば専門家にもお金を支払うことができる。
支払い能力がないから信用を失う。
信用を得るためには、ちゃんとお金を支払う。
ちゃんとお金を支払っていれば、物の価値が理解できるようになり、価値を提供できる専門家が集まるようになる。
値下げを期待してばかりいると、自分の価値を下げる。
だから、値下げなど期待せずに、ちゃんとお金を支払うといい。
ここからはじまる。

慣習に疑問を持つすゝめ。

2020.1.4

気づいたことがあった。
 
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」の「今年もよろしくお願いします」が余分なんじゃないか。
 
「よろしく」の語源をインターネットで検索すると、「うまい具合に」や「適当に」という意味が出てくる。
つまり、「よろしくお願いします」は「うまい具合によろしくやるようお願いしますね」という意味になる。
ネット程度だと詳しい語源が出てこないから、正確さには欠けるけれど、使われ方としては、的外れではないだろう。
 
話を戻すと、「今年もよろしくお願いします」と言うのは、何も相手に与えていないのに、「うまい具合に付き合ってくださいね」というお願いをすることになる。
昨年読んだ『GIVE & TAKE』という本の言葉を借りれば、与えていないのに、貰おうとするテイカー(利己的に奪う人)の特徴だ。
 
さらに厄介なのは、こういう話をすると、必ずと言っていいほど「慣習だから」と言われるのだが、日本の社会で問題になっていることの原因は、慣習が多い。
終身雇用や年功序列も慣習が原因だし、生産性を上げようとする試みも慣習が邪魔をする。
 
つまり、「今年もよろしくお願いします」と当たり前のように言っていることは、何も与えずにうまいこと得ようとする利己的な性格と、慣習だから疑わない性格を作り出すのを手伝っているんじゃないだろうか、と思った次第だ。
 
思えば、こういうことに疑問を持つのも、特異な視点となる。
そして、こういった視点を提供することがうちの事務所の価値となり、評価となって、仕事が生まれている。
 
「慣習」に疑問を持つことは、阿呆なことのように思えるかもしれないし、たくさんの批判を受けるようなことだけれども、「多くの人が持つ視点」と「特異な視点」の両方を持つ訓練としてはおすすめだ。

学ぶ前に謙虚さを習得する。

2020.1.2

昨日の続き。
なぜ、見た目を整えることが大事なのか。
それは「見た目がだらしない人のことを、社会は信用しにくいから」というのは昨日話したが、だからと言って、デザインが浸透したかというとそんなことはない。
「世の中にデザインが必要だ」という風潮になっている現代日本においても、これは二分される。
経産省から「デザイン経営宣言」が発表されるなど、日本国内でもデザインの重要性が広まってきたが、「デザインとは何だ?」と疑問を持ち、本当の意味で「デザインを知りたい」と思う人は少ない。
しかし、そういう人は見た目でわかる。
本当の意味で「デザインを知りたい」と思っている人は、見た目が整っているのだ。
少なくとも、見た目がだらしない人、好みで押し通している人はいない。
 
髪型や体型が流行に乗っている人は「デザイン思考」とか「UX」という言い方が好きな傾向にある。
そういう人は、デザインを理解するのではなく、自分のためにデザインを利用したい傾向が強く、学ぶことが下手な傾向にある。
実は今っぽい格好をしている人よりも、可もなく不可もないような格好をしている人の方が、デザインの理解度は深くなる。
これは学ぶときの姿勢に影響しているが、自分を強く見せる格好を選んでいる人は、学んでいるときに謙虚になりにくい。
一方で、可もなく不可もない格好を選んでいる人というのは、自分が人と会っているときに、相手に強い刺激を与えないように配慮をしている傾向がある。
これが、見た目に無頓着な人であれば、自分の好みで服装を選び、ちぐはぐな組み合わせになる。
 
つまり、強く見せる格好や好みに偏った服装を選ぶことは、利己的な振る舞いであり、それをしないようにするためには、謙虚さが必要なのだ。
そして、可もなく不可もない格好を選んでいる人ほど、学ぶときの謙虚さを持ち合わせている。
もしも、最低限の見た目の整え方を学びたいのなら、学ぶときの謙虚さを習得しておく必要がある。
学び上手は、何をしてもうまくいきやすい。

初心者のためのデザイン心理。

2020.1.1

正月とまったく関係のない内容ですが、今年もサンポノをよろしくお願いします。
それでは今日の話です。
 

この数年考えていること。
 
「なぜ、デザイン事務所はBtoBなのか?」
 
これだけ「個人の時代」と叫ばれている中で、法人相手の仕事しかしていないデザイン事務所が多い。
むしろ、それしかない。
「デザインの作り方」や「写真の撮り方」の書籍がどれだけ販売されていても、こういった本を読むのは専門家になりたい若手だが、この数はおそろしく少なく、お金も持っていない。
 
デザインというのが見た目しか関わりがないと思われているのはまったくの誤解であり、思考の現れが見た目であり、思考も含めてデザインである。
けれど、そんな話をしなくとも、「見た目が大事」と潜在的に理解している人は多い。
それは、見た目にによって、個人の中身を判断されてしまうからだ。
見た目がだらしない人は信用されにくいのは、残念ながら、覆せない心の働きだ。
同様に、見た目が社会と合っていない人は、避けられやすいものだ。
ファッションの街では奇抜な格好でもいいかもしれないが、そうではない場では奇抜な格好は信用されるためのハードルが高くなる。
 
極論を言えば、鼻毛は自然に伸びるのに、鼻毛を出しっぱなしにして会社に来る人は少ない。
寝癖のままの髪型で、会社に来る人も少ない。
寝癖のまま会社に来れば、「タイムマネジメントができない人なのか?」や「この人を社外の打合せに同行させて平気なのか?」と思わやすい。
これは性別問わずであり、潜在的に多くの人が理解していることでもある。
しかし、蔑ろにされやすかったり、主観で押し通してしまうことでもある。
 
これをデザイン論理的に話せばこうなる。
 
「見た目がだらしないと、他人からの信用を得られにくい」というのは「事実」だ。
これを研究している論文は数多くあるが、書籍として読みたい人がいれば『しらずしらず--あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』という本を読むといい。
この「事実」を前提にし、他人に悪く見られたくないという不安を解消するために、人は見た目を整える。
「不安の解消=目的」で「整える=行動」だ。
これはネガティブの解消だが、ポジティブな方向で考えるなら、人に良く見られたいという欲望を満たすために見た目を良くする。
この場合は「欲望を満たす=目的」で「良くする=行動」だ。
まとめると、ネガティブにせよ、ポジティブにせよ、事実としての前提があり、事実に対して目的が発生し、目的を達成するために行動する。
 
そして、良くするのは際限がないが、最低限の整え方は決まっており、個人の好みや主観ではなく、習えば誰でもできることだ。
ここは重要だ。
最低限の整え方は、個人の好みや主観ではなく、習えば誰でもできることだ。
 
人に良く見られたいという欲望には際限がないが、人に悪く見られたくないという不安には最低限のレベルがある。
これは、数々の法人や個人と会っていて、最低限を知らないから、間違っている見た目を選んでいる人が多いことがわかった。
それは、デザイナーでも同じだ。
法人相手であれば、ぼくも含め普通にデザイン事務所が提供しているが、個人に対して提供できないだろうか、と考えるようになっている。
わかっている事務所は始めているし、ぼく自身もやっているが、クライアント企業を育てることを仕事にしている事務所も出てきている。
 
見た目が悪くて平気という人は、実はそれほど多くない。
多くないということは、「見た目は大事」もしくは「見た目も大事」という人の方が多いということだ。
繰り返しになるが、「見た目」には「個人の内面」が現れると思われるからだ。
個人の内面は、法人的に言えば「思想」や「哲学」となる。
数年前に企業ホームページで流行った「Philosophy」というのは、企業の内面を言葉にして見えるように整えたものだ。
 
こういったことは、単純な方法論であり、「こういう見え方にすると、こういう印象に受け取られる」というデザイン心理学的な話だ。
この「単純な方法論」を、個人で困っている方々へ提供できないだろうか、と考えている。
いや、「困っている」というよりかは「一度諦めてしまった」方々だ。
実際、ぼくのところには個人的な相談も多い。
その中には、人生相談もあれば、選び方を質問する方もいる。
それが、うちの事務所サンポノの一番の特長だろう。
 
ただし、質のレベルを高めることは、価格を高くする。
法人相手であれば「際限がないレベル」に及ぶから価格は高くなるが、「最低限のレベル」で構わないのなら、伝えるだけで十分なので、価格は下げられるんじゃないだろうか。
 
最低限のレベルであれば「整ったものを選ぶ」。
汚れた場合、お金が使えるのであれば、「買い換える」。
お金が使えないのであれば、「手入れ」をする。
ほとんどのお金を持っていない人が理解していないのが、手入れをされていないものを味と言うのは主観だが、手入れがされているものを味というのは客観になりやすいことだ。
だから、糸のほつれは直した方がいいし、靴磨きはした方がいい。
Tシャツにおいても深めの襟ぐりなのか、くたびれて伸びきった襟ぐりなのかで大分違う。
柔らかい生地なのか、硬い生地なのかも、印象は変わる。
くすんだ茶色なのか、おろしたてのブラウンなのかも、他人は知覚できる。
爪を整えること、髪型を整えること、服装を整えることだけで、信用度のハードルは大きく下がる。
これもデザイン心理だ。
そして、最低限の整え方、TPOに合わせた整え方がある。
ちなみに、ぼくはいつでも仕事がしたいので、自分に対して最低限の整え方をしている。
最低限の整え方を伝える個人によったデザイン事業、それができないだろうか。
そこから整えることに興味が深まってデザイナーになりたくなっても、ぼくは教えられる。
企業に対しても教えられる。
ん?なんかできそうだな。
「初心者のためのデザイン心理」、「デザイナー育成」、「デザイン部組成」。
あ、できた。