Archive for 2016.4

箸の持ち方と立ち方とブレークスルー。

2016.4.16

これまでの人生、といっても33年だが、立つときは片足に重心を傾けていることが多かったと思う。それが、姿勢を気をつけるようになり、両脚に重心を分けて立つようになった。
 
最初は両脚でに重心を分けて仁王立ちしていると窮屈に感じていたのだが、慣れてしまうと、片足に重心を傾けることに違和感を覚えるのだから不思議だ。
 
これを書いていて思い出したのが、「箸の持ち方」もそうだった。恥ずかしい話だけれども、一般的な箸の持ち方を覚えたのは、高校の頃だった。しかも友人から指摘されて初めて気づいたのだから、情け無い恥ずかしいものだけれども、直しているときは、やはり窮屈だった。
 
それが、今や、直す前の持ち方だと、ご飯を食べれないようになり、むしろ訓練している利き手じゃない左手で箸を扱った方が上手く食べれたりするのだから、人間の体は不思議だ。
 
ただ、箸の持ち方と立ち方を比べていると、どこかのタイミングで違和感が逆転する瞬間があるはずで、もしかしたら、その瞬間は、問題解決のブレークスルーのタイミングとも近いんじゃないだろうか。
 
ということは、そのタイミングを計測することができたら、ブレークスルーにかかるための労力と時間と感情のコストが分かるんじゃないだろうか。
 
それって、小耳に挟んだことのある「10,000時間やれば、そのことの天才になる」ということと近いんだろう。果たして、その時、感情が乗っていたら、もっと短い時間と労力になるのかもしれない。そしたら、感情を乗せる方法があるだろう。個人個人においてそれが分かったら、全員天才になれるんだろうな。

アートと機能。

2016.4.10

友人とノベルティの話をしていて「役に立つもの」という言葉を言って、自分でハッとした。
 
アートというのは、どこまで行っても「主観」だ。普遍と呼ばれることを見つけても抽象的な観念であれば、それは個人が勝手に皆と共通と考えている主観だ。
 
しかし、「役に立つ」と言ったとき、そこで求められているのは「機能」だ。誰がどう使おうと、同じように作用する性質であり、アートで用いられるセラピー効果のような、対象者によって異なる成果を発揮するものという前提では「機能」とは言い難い。
 
私も今まで、アートは役に立つものと言っていたし、考えていたが、そこで結びつけていたのは、前述のように、「人によって効果が異なるもの」であったし、「すべては主観だ」と言っていた。それでは、惚れる人は心底惚れてくれるが、そうでない人には、全くの無駄のように思われても仕方がないだろう。
 
アートに「機能」を結びつけることができたら、または、「機能」を後押しするようにアートが存在できたら、もっと多くの人に届けることができるんじゃないだろうか!?

今までと違うことを選ぶ。

2016.4.3

引き出物でもらったロックグラスにヒビが入った。買い物がてらにグラスを探しに行き、入った雑貨屋で一通り見渡した後に、グラスを1つ買った。
 
当初はロックグラスを買おうと思ったのだが、実際に買ったのは、普段の自分では絶対に買わないような、化粧細工入りグラスだ。自分でも不思議に思ったが、店を一回りして一番気になったのは、そのグラスであり、店内をもう一回りしながら、ひっかかった理由を考えていた。
 
答えは「家にあるグラスのすべてを違うものにしたい」というものだった。普段、機械で作られている製品を見ると、すべてが同じように見えるし、同じものであると考えがちだが、本来、全く同じものなどないのだ。
 
すると、失ったものを補填するために同じものを得ようとするのではなく、「違って当たり前」と思っている方が、気が楽であり、楽しみが一つ増えるのではないだろうか、と、意識的になる前に、体が求めたのだった。
 
その後も、普段行く喫茶店が閉まっていて、近くにあるコーヒー専門店に初めて入ったのだけれども、コーヒーではなくラズベリーソーダを頼み、今までだったら選ばなかったアウトドア用のライトシェルパーカーを家の中で着て、暖をとっている。
 
自分の中で、多くのことが変わろうと動き出しているのかもしれない。

違いを感じるのは自分。

2016.4.3

昨日、考え事、読書をしにカフェに行き、作業をしていると、海外の人たちのグループが入店し、お店の真ん中のテーブルに着いた。
 
私は壁向かいのカウンターに座っていて、他のお客さん達には背を向ける位置にいて、店内の会話が背中から聞こえてくる状態だった。店の大きさは、広めのワンルームぐらいのためあまり大きな店舗ではなく、真ん中に位置取るお客さんの声量によってお店の雰囲気が変わる。
 
議論好きなグループでもあったのかもしれないが、それでも、彼らの英語による会話はお店の雰囲気を華やいだものに変えた。私にとっては、居心地の良さは変わらないものだったが、一方で、うるさく感じる人もいるのだろう。
 
仮にうるさく感じる場合は、英語がもたらすものではなく、自分にない文化に対しての馴染めなさがあるときに生じるものだろう。それは、日本人同士でも、世代差、地域差、男女差など育った環境の違いが、文化の違いとして表れるものであり、この違いをどう感じるのかで、自分の心のありようが変わってくるのだろう。