Archive for 2015.1

最期の表情。

2015.1.25

人は死ぬ。他人が最後に見られるのは、死んだ人の死に顔だ。悲しみや苦しみに溢れているのか、幸せに満ちているのか。幸せを人の手で引き離されたまま死んでしまった人達の心には、何が生まれたのだろうか。全ての人が幸せになって欲しいと願うのは、我が儘なことなのだろうか。


疑問。

2015.1.24

日本人が人質として拘束されてから、再び「自己責任」という言葉を聞くようになった。この言葉を聞く度に、「他のことなら他人のせいにしていいってこと?」という疑問が浮かぶのだ。そして「責任論で解決することなどあるの?」という疑問と、「普段、仕事をしていて責任論で片付けようとする人を信用している? もしくは、そんな人が仕事がデキルと思っているの?」という疑問も浮かぶのだ。
 
ここで疑問と話したが、僕の答えは「NO」と決まっている。そして、「自己責任」と言っている人達が、他のことを他人のせいにして片付けているのだろうと予測している。なぜなら、「責任論」で片付く話などないことを知っている人間なら、こんな言葉がとても陳腐なものだとわかっているからだ。
 
そういうことがわかっている人が多くなるような社会になるためには、まだまだ僕らが頑張らなきゃいかんわな。


風呂で考えた。

2015.1.18

身体の芯まで冷えているときに、「風呂に入ろう」と思えるのも、贅沢な考えの1つなのだろう。昨日、資料を探しに外に出ていると、手足が冷えていき、身体の奥底まで冷えていっているのがわかった。腹の底から身体を温めようと思い、麻辣湯という、漢方や香辛料がたっぷり入ったなんとも健康的な麺料理を食べたのだが、それでも、風呂に入る方が、何倍も身体が温まる。
 
帰宅後、ビールを呑みながら風呂を沸かし、その間にラフを描いている。ラジオからは浅田次郎さんの短編小説が流れている。家の風呂はバランス釜という、設定温度などなく自分で止めなければ煮立ってしまう旧式のものである。しかし、それさえ気をつければ、銃弾が飛んでくることも、飲み水を心配することもないのである。
 
風呂に浸かると溜め息が漏れる。頭の先までお湯の中に入ると、この世から離れることが出来る。お湯の中で目を開けると、視界がぼやけ、今まで自分が見ていたものが嘘のように思えてくる。その内に、目から侵入した(?)お湯が口の中に潜り込み、溺れると察知して頭をお湯の外に出す。
 
人間の頭の中での出来事、目の前で起きている事実、胡蝶の夢、その全てがどれも真実であり、風呂の中で銃弾が飛んでくることも0%ではなく、ガス機器が爆発しないこともない。確かなことなどなく、全てが不確かなことの中で我々は生きている。そう思えば、やりたいことをやった方が良いに決まっている。旅をしようと思った。


二律背反。

2015.1.17

所謂、一般的な人生を歩めなかった人達がいる。そして、その人達は、一般的な人生を歩めた人達がどんなに想像しても、救うことが出来ない苦しみを抱えている。
 
そんな時、やはり、分かったつもりにさえなれないと、諦めるしかないのでは、と思うのだ。また、それと同時に、興味本位で知りたくなる自分がいることも発見する。
 
それは、自分においても同じであり、入院児童として育った自分にしかわからない思考回路が出来てしまっている。「苦しみ」を「思考回路」と言い換えたのは、苦しみは「分かり合えない」という諦めになり、分かり合えないことが重大ではなくなってしまったからだ。
 
人にはその人にしかわからない苦しみがある。それにも関わらず、多数派が普通(一般)となり、少数派がオカシイとなる。


自然の声。

2015.1.12

川の声が聞こえ、快晴の下、冬の風が語りかけてくる。しばらくの間、渓谷の岩場で昼寝をしていると、目に見えないレベルで土も風も陽の光も感じることが出来るのだ。自分がここから生まれた一方、既に不自然な物体になっている人間。違いを改めて教えられるとともに、どこにいても、この土と風と水、そして陽の光がある、この場所へと帰ってこれると信じることが出来る。
 
水はどうしてこのカタチ? 岩はどうしてこのカタチとして生きているのだろうか? 科学で説明されてもピンとこない、「生きている」という感覚。万物が生き、自分を取り巻く空気さえも生きているような感覚。この大きな地球の一部として生まれながら、万物であるという感覚。
 
風の声が、川の声が、陽の声が「お前はここにいる」と教えてくれる。