Archive for 2009

年末の話

2009.12.31

 漸く時間が出来ました。午前中にデータを作って送って、お昼と朝食の買出しに出かけたら「寿」、「賀正」、「謹賀新年」などの文字が並んでいた。人はわざわざ人工的にイベント事を設けて、季節感を味わったり、一年にメリハリをつけている。

 先日も家で呑んでいる時に「年末にここに来ないと年を越した気分にならない」と友人が言っていたが、果たして、その気分を味わう絶対的な必要性があるのだろうか? おそらく必要はないのだ。

 「人が人として生きること」をいつも考えていると傍目には退屈な日常の様に見えるかもしれないが、精神的にとてもメリハリのある日常を送らせてもらっている。そして、今日も普段と変わらないことをして生きている。このように文章を書いたり、作品を見せたりしているときに「全ては等価なもの」や「意味なんて無い」などと立派そうに聞こえることをおっしゃる人々がいるが、たとえ平等に存在を許されていたとしても、そこに意味はある。「純度が高いか、低いか」だ。現実だとしても、観念だとしても在るものには意味(性質)が存在している。その意味(性質)の純度が高いのか、低いのかがそのものの存在価値ともなっている。私は人間という動物として生まれた。生まれたのだから、私は人間という動物の純度を高めようとしている。他の動物だってそうだろう、その種族に出来ることを全うしようと生きている。つまり、自然はそうなのだと言うことが出来る。人間と違い、考えることが出来ないとされているだけで、自然には一生懸命しかないのだ。そうであるのならば、人間として一生懸命生きることが人間という動物を全うしていることになるとも言える。それは、考えること、真理に気付くことだとも言えるが、そのやり方は今や多岐に渡っている。しかし、どのやり方だとしても、純度を高めようとしなければ人間としての性質は低くなる一方だ。

 作品と関わり、作品と生きて、今日も一日が終わります。来年も人間として正直に生きていくのだと思います。今年も色々な方と出会ったり、支えられたりしました、本当にありがとうございます。皆さまにおかれましてもよい日々を。

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星と人間

2009.12.30

 今年も例年通り、飲み会の後に「エグチマサルの部屋をキレイにしようの会」を催して頂きました。とても助かりました。相対的にみても平時において僕のアトリエや部屋は綺麗な方だろう。というのも、作品の保管にも影響が出てくるし、単に乱雑な場であるのに対して安易に言われてしまう「混沌」というものに純度の低さを見出しているからだ。純度の高い「混沌」にはそれ自体で価値があるだろうし、止揚が起きるだろうが、人々が使ってしまっている「混沌」の状況は単なる甘えだと言える。

 そして、友人達が帰宅した後、風呂に入り、身を整えた後に見上げた夜空には星が輝いていた。星の輝きには、その星の死が近いことを表しているという意味があるらしい。星は死んだ後、ガスとなり、次の星が生まれるための栄養(糧)となり、後世の星々へと繋がっていく。そのようにして宇宙は時の流れを繋いで来た。それは宇宙にだけ当てはまることではなく、地球にも、人々を含む全ての生命体においても同様のことで時代も文化も超えて繋がって来たのだ。すると、肉体の死(物質としての死)は恐れるに足らないことであり、輪廻を絶ち、流れを止め、循環を亡くすことがどれほど宇宙の真理から離れることなのか、それを個々人の精神(脳と言う人もいるだろう)において考えると面白い。

 壮大だと思われる宇宙は、私たち人間ひとりひとりにおいても同じだと言うことがわかるのだ。私たちの中には同じ宇宙が広がっている。これだから考えることは面白く、人間という動物の純度を高めることなのだ。反対に、考えることを中途半端にしてしまう者は、人間という動物の純度が低いということだと言える。

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お金の価値

2009.12.25

 やはり、悲しいことに世間一般に最も大切とされているものの1つに「お金」というものが挙がってくるようだ。「お金」というものに絶対的な価値を見出しているのが現代人と言えるのかもしれない。けれども、「絶対的」と思われている「お金」の価値も、為替相場の数字を見ていると、とても不安定なものとして見ることが出来る。その数値は刻一刻と変化し、2008年以降の不況によって、円高傾向は増すばかりで、先日もドバイ関係で円高が進んだようだ。

 僕にとって経済学は門外漢だが、お金の価値というのは不安定なものだということは理解出来る。バブリーな時代、1000万円かウンビャク万ドルかは忘れたが、それほどの額で取引をされていた作家の作品が今や10数万円で引き取って欲しいということになっているそうだ。また、清涼飲料水1つをとってもAスーパーでは80円、Bスーパーでは120円で売られていたりもする。値が大きいように見えても小さいように見えても、絶対的ではないということが露呈されているに過ぎない。私たちに流れている血液も滞れば、体に不調をきたすのと同様、不況になるのは「お金」の流れが関係しているのも理解出来る。そして不況だと言って、先の見えないことを徒に不安がって貯蓄に精を出す人々、貯め込む人々によって物は流れなくなり、やはり景気は悪くなってしまう。

 しかし、ここで1つ考えて欲しい。「先が見えないことへの不安」というのはどういうことだろうか? 先が見えている人はいるのだろうか? 「○歳までに△△をする」というのは夢や目標であって確かに約束されていることではない。もしかしたら今日、車に撥ねられて死んでしまうかもしれないし、半年後に重病に冒されてしまうかもしれない。つまり、「先が見えない」のは万人に共通のことなのである。にもかかわらず、「先が見えないこと」を徒に不安がって、お金を貯めることに精を出すのはどれほどの価値があるのだろうか。

 そして、先日、TV番組でどこかの研究者が「不況は本当に大切なことを考える良い機会だ」とおっしゃっていた。まさにその通りではないだろうか。この不況の今こそ、「お金」がとても不安定な価値だということを知り、「明日、死ぬかもしれない」ということを知り、「自分がやりたいこと」を考え、「自分がやりたいこと」を本当に実践してみてはいかがだろうか?

 そのように「本当にやりたいことを実践する」生き方をしていると、実はどうでも良かったことに左右されずに、人間が生きて、死ぬということを考えることが出来るようになるものだ。人は誰でも、生まれては死ぬ。どれだけ裕福だろうと貧乏であろうと、死ぬことだけは避けては通れないのだから、「生きること」と「死ぬこと」について考えることが出来るのがどれほど幸せなことか、理解することが出来るだろうか? しかし、そのことを考えることが出来るようになると「お金」や「安定」を第一の価値に挙げることが出来なくなるのだが、さて、君はどちらの人間が幸せだと思うのだろうか? 「生き死に」について考えることが出来る人間になりたいのか、明日死ぬかもしれないのに見えない将来のために「お金」を貯め込む生活をする人間のままでいいのか、選ぶのは君自身だ。

(2009年12月25日 19:48)

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執着心

2009.12.25

 物を無くす生活にも大分慣れて来て、今日はCDを処分しに行っていた。昔は「いつか○○するかもしれない」と思って多くの物を手放すことが出来ていなかったが、それは未来にも過去にも、そして今においても生きているということではなかった。今のこの瞬間の連続が過去となり、今となり、未来となることが理解できると、執着心というのも無くなっていた。そのことは20歳あたりには気付いていたが、身になっていなかったと思われる。

 そして、CDを売った帰り道、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」という言葉が舞い降りて来た。理解ったのだ。仮に扱うものが言葉であるのならばそれは哲学だろうし、作品であるのならばそれは藝術だろうし、人であるのならばそれは宗教だろう。ただ、それだけの違いだとしか思っておらず、全ては同じことを言っている。

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精神的な暖かみ

2009.12.21

 昨日は僕の住んでいる団地で毎年催している「芋煮会」に参加してきた。参加してきたと言っても、振る舞われた芋煮とおむすびをご馳走になっただけなのだけれども、毎年なんやかんやで顔を出すことも出来なかったので、念願叶ってという感覚が強い。会の主旨としては災害時の対策らしいが、お母さん達のパワーはとても強く、そのパワーが何人も合わさるととんでもなく力強く、ただただ圧倒されていた。そして、パンパンになったお腹をさすりながら、満たされたのは腹以上に、心の方なのだろうと思っていた。目の前にはお土産(?)にいただいた芋煮とおむすびが暖かみをくれていた。

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言葉遊びじゃなくて、今、やることが重要なんだよ

2009.12.15

 「やりたいことがない」と話す人と出会うことがある。大抵、その人というのは時流に乗った物品を買ったり、明日の生活のためにお金を稼いでいる人であったりするが、「明日、生きていること」を誰が約束してくれているというのだろうか。

 つまり、こういうことだ。

 「明日、死ぬとしたら、君は何がしたい?」

 ここで、お金や規模のことを考えてしまう場合は、この質問の意図がわかっていない。一日なんてたかがしれているのだから、自ずと「やりたいこと」は単純になってくる。「作品をつくりたい」というのであれば、作ればいいし、「家族と過ごしたい」というのであれば、家族と過ごせばいいし、「誰かに謝りたい(お礼を言いたい)」のであれば、その人に会いに行けばいいだけの話だ。

 その考え方を理解し始めると、「今日、死ぬとしたら、何がしたい?」ということを考えられるようになり、その内に、「今、死んでも満足がいく人生だ」という生き方が出来るようになってくる。そのような生き方が出来ている人ほど、精神的に強いと言われているし、幸せそうな表情を見せてくれる。

 何故、このようなことを話したかというと、「やりたいことがない」と話してくれる人は大抵、「精神的に強い人」に少なからずの憧れを持っていたり、「幸せになりたい」と思っていたりするからであり、そう思うのならば、上記のような問いについて考えてみるといいんじゃない? そして、実践してみればいいんじゃない? ということだ。「やりたいことを本当に実践する」ということが重要なんだよ。

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もっとシンプルに生きれば良いんじゃないの?

2009.12.9

 一段落着きそうな予感。今、創作している作品の確認をしていたら、先日まで来客たちに見てもらっていたものとはあからさまに変化してしまった感が否めないが、濃縮されたようなので結果オーライ。

 最近、色々な人達が変化をしようとしていたり、迷っていたりしているようなのだが、僕はいつも同じようなことを言っている。

 「アルバイトや派遣社員だったら、君に何かあっても雇い主は何も保障してくれない。君が正社員だとしても、君がいなくてもその会社は動いていくし、その会社がなくなっても社会は動いていく。社会や社会を構成している人類がいなくても地球は動いていくし、地球がなくても宇宙は動いていく。宇宙がなくなったらそれでおしまいか、再び最初から始まるかのどちらかだろう。そのくらいの規模で考えれば、君が生きていようが死んでいようが、あまり差異のないことなんだ。だから、自分に正直に、本当にやりたいことをやってみてはどうだろうか。つまらないしがらみのために取り繕って、不幸そうな顔で他人に愚痴をもらしていることよりも、正直に生きていく方がよっぽど君は幸せになるんじゃないのか? 君は本当は何をやりたいんだ?」

 これは、幸せが外からやってくるものだと思っている人にも、似たようなことを言っている。

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光学装置の記憶

2009.12.6

 portfolioを更新してもらいました。

 「光学装置の記憶」シリーズは、「シリーズものなの?」や「展示したっけ?」と質問されそうですが、名刺やブックなどで見たことがある人達がけっこういるということと、今の作品やこれまでの流れを話す時にどうしても避けては通れない作品となったので、これを機会にweb発表に力を入れてみようと思って、載せてもらいました。なので、「○○○○(部分)」として部分を見せながら、全体像とは違ったフォルムや比率でも見せて、違う視点を体験してもらっています。

 けれど不思議なのは、全体像を知っているということもあって、部分で見ても全く違う1枚のように見えないことが、「タイトルの付け方を間違っていなかった」と思えたりと内心ホッとしています。

 documentの資料ともども御高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

 エグチマサル

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作品と触れ合う時間

2009.11.30

 昨日、ワークショップのゲスト講師をさせていただきました。その帰り道、受講生の方に質問されたことに興味深いものがありました。

 質問
 「エグチさんは、(睡眠時間が6時間ぐらいだとして)1日どれくらいの時間、作品のことを考えていますか?」

 皆さんはどうでしょうか? 僕は、1日中、作品の事を考えていますし、触れています。と、いうのは、今キーボードを打っている感覚やモニターを見ている感覚からも作品をつくることが出来るし、夢の中でも作品をつくっていたり、作品と触れていたりしているからです。これは、コップを洗っていたり、電車を待っている時のように、一見すると作品とは関係の無いことをしている時でさえも作品と結びつけて考えているし、自然と結びついてしまうのです。つまり、1日中、作品と共に過ごしています。

 けれども、それは藝術業に限って言うことなのでしょうか? 僕はそうは思えません。スポーツ選手でも料理人でも大工でもどんな職種であれ、良い仕事をする人というのは、常にその業種と過ごしているように思えます。昨日も、受講生の作品を拝見させて頂いてお話をしていて作品の話ではなく他の事柄と結びつけて話をさせて頂いた時は、まずはそのことに気付き、ちょっとやってみようかということでした。

 藝術というのは特別な事ではなく、他の業種と変わらずごく有り触れた社会的な事である一方、それをやり続けるには、常に作品といる(結びつけて考えることが出来る)ことが重要だと考えられます。

 とても貴重な時間を過ごさせて頂き、誠にありがとうございました。

 エグチマサル

(坂井さん、名前で検索してもHPに当たりませんでした。検索の仕方が悪かったのかな・・・?)

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「一生懸命」と「幸せ」

2009.11.28

 友人に誘われてサルガド展(セバスチャン・サルガド「アフリカ」)へ。

 数年前にも東京都写真美術館でサルガドの展示が催されていたと思われるが、その時の方が圧倒されたような感じがしていた。どこかでビジュアルに慣れてしまったのだろうか、ドキュメンタリーの部分であれば他の映画や文献などで知り得る事が出来るので、それらをなぞるような感覚で見ていた。そして、主旨とは少し離れる画の方に惹かれたのだった。

 それよりも有意義に思えたのが、展示を見終わった後、友人とアフリカ地区の話から「幸せ」の話をしていたときだ。8時間ぐらいだろうか、サシで「幸せ」について話を交えることが出来たというのは、とても大切な時間だった。

 「どんな状況であれ、一生懸命に自分に正直に生きる」ということが「幸福感」に繋がっていくのではないだろうか(「正直に生きる」ということと「自分勝手に振る舞う」ことの違いは、過去のブログに書いてあるので割愛させて頂く)。個人個人がそのように生きることが出来れば、所謂、「ブラック会社」というものも運営が出来なくなるし、仮に、衣食住のどれかでも著しく欠けてしまい、「幸せ」について考える力や気付く事が出来ないのであれば、欠けているものを与えることから始めても良いと考えている。

 そのことに気付いた後、人は幸せになるのではないだろうか。人は誰でも生まれ、死ぬ。そのことにおいて人は平等だ。しかし、不幸な表情のまま死んでいく者がいたり、満ち足りた表情をして逝く者がいることも事実であり、人はその一点においては異なる。そして、死んだ後は、気付く事も考えることもやり直すことも出来ない。そうであるのならば、「その日」が訪れる前に、気付けた方が良いとは思わないだろうか。

 「大変な状況にいる者は、そんな悠長なことを言ってられない」というのであれば、欠けているところを補うことから始めても良いはずだ。自分一人でそれが出来ないのであれば、調べれば数多く仲介してくれるところが存在している。そして、考えられる状況を得た後に、考える事や藝術に触れることを始めても、遅くはないと考えられる。方法論は数多く存在してあり、「こうしなければいけない」という壁や限界(無理、苦手、不器用、不可能など)は、自分自身の勝手な思い込みなのではないだろうか。人はもっと一生懸命、頑張れるはずだ。それは僕にも当てはまり、もっと頑張れるはずだ。

 創作から離れた時間だったが、人としてとても貴重な時間を過ごす事が出来た日だった。

 

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