Archive for 2018.7

分かりやすさの弊害は。

2018.7.11

ここ最近、「分かりやすさの弊害」について考えることが多くなりました。
分かりやすさだけで育つと、ヒトはどうなっていくのだろうか。
 
ヒトは面倒臭がりで、ヒトの脳みそは、とても面倒臭がりな生き物です。
つまり、企業の製品やサービスを買うお客さんは、基本的に面倒臭がりなのです。
だから、企業はお客さんに嫌われないように、なんでも分かりやすくします。
簡潔に、言いたいことを述べる表現を推奨されたりね。
 
この最もたるのが、説明的な広告です。
ユーモアとか、培ったセンスだとか、野暮なことを言うと、話術だとかは必要ないです。
 
クスりと笑わせたり、「あ、そうか!」と発見があるような広告って、もうほとんど見なくなりました。
「なんか、いいんだよなぁ」と、とっておきたくなるような広告は、さらに見なくなりました。
「すげぇかっこいい!!」と、思わず盗みたくなるような広告なんて、皆無です。
 
説明的になる一方で、述語的表現も稚拙になっているようなね。
「分かりやすい」と「分かりにくい」だけの判断軸で物事を進めるのなら、機械につくってもらった方が優れているでしょう。
しかも、データによって答えを出そうとするのだから、ヒトが入り込まない方が、いいでしょう。
 
そうすると、人間は問いを出して、売る商材を決めるだけのような気もするけれど、それも自動化する方が的確でしょう。
こうなったとき、「分かりやすさ」ではない要素をヒトに求めるようになるでしょうが、「分かりやすさ」しか鍛えてこなかったのだから、ヒトは何もできなくなります。
 
もしかしたら、違う何かが育つのだろうか。
ユーモアじゃないもの?
それとも、ユーモアの形が変わるのか?
そんなことを、最近考えています。

まとまらないね、話のなかみ。

2018.7.10

一日を通して、次の日のブログを書く時間を確保したり、筆が走るときに走らせちゃっています。
けれども、どうにもこうにも書く時間を確保できなかったり、書くことがまとまらないときもあります。
なーんにも浮かばないっていうときはないんですけどね。
時間が確保できないときは、書き溜めたストックから書いたりね。
 
今日(昨日)は、書くことがまとまらない日でした。
でもね、書けそうなことは、たくさんあるんですよ。
 
「自分の土俵にヒトに上がってもらってばかりいると、自分は成長しないことに気がついた」とか。
「畑の違う区画のおっちゃんが、アメリカでデザイナーをやっていて、いまは悠々自適の生活を日本でしている」とか。
「色んなヒトと連日お会いしているけれど、同業の労働環境の劣悪さは、何も変わっていない」とか。
「最近、出会う年上の方々が、とても素敵」とか。
「茶道教室に見学に行って、とても有意義でした」とか。
「コンビニにいたら、店内をラップで練り歩く青年のような中年と遭遇した話」とか。
「神田屋という魚屋が美味しいらしい」とか。
「相田みつを美術館に行った話」とか。
 
ほらね、いろいろと投稿できそうな話があるでしょう。
でもね、ぜんっぜん、話がまとまらないんですよ。
書き始めはいいんですけどね。
話が尻すぼみになっていく、想像ができちゃうんですよねー。
ちょっと、キレイごとや愚痴の類になっちゃうようなね。
 
もっと短く、書けばいいんですけどね。
と、言いつつ、もうこんだけ書いちゃったよ。
今日は、「話がまとまらないとき」の話でした〜。

2018.7.9

今年買ったモノは、当たりが多い気がしています。
当たりのひとつが「バリカン」。
パナソニック製のバリカンで、付属品を付け替えることによって、いろいろな髪型がつくれます。
自宅で髪を切る「セルフカット」ってやつですね。
 
ぼくは大学卒業以来、自分で髪を切っています。
もっと言えば、高校時代も自分で髪を切っていました。
あの頃は、へたっぴでしたねー。
ボサボサです。
すきバサミとカット用のハサミの、二本だけを使っていました。
その頃のハサミを、今でも使っているんですけどね。
 
襟足を切るときは、洗面台の鏡に背を向いて、手鏡を持って、合わせ鏡にします。
そこにハサミを入れていくのだから、もうね、大変です。
思い切りの気持ちは絶対条件。
切る上手さは、後からついてきます。
(下手なんだけど)
 
切り落とされる髪を、体につけたくないから、洗面台の方に体を仰け反って。
腹筋はプルプル震えてきます。
プルプル震えながら、ハサミを入れていくのです。
もうね、大変ですよ。
こんなことを、浪人時代と大学時代を除いた15年ほど続けていたわけです。
 
なに!?
15年だと!
15周年じゃないか!
セルフカット歴15年イヤー。
書いている今、気づきました。
 
そんな祝いの年ともつゆしらず、偶然見つけた「バリカン」。
坊主にしてた頃に、友人から借りパク(借りたまま返さない)したバリカンしか知らないぼくは、「バリカン=坊主」の知識しかないですわ。
それがね、15年後のバリカンは、未来のバリカンですよ。
もうね、いままでの15年が、びっくりです。
 
ブイ〜ンという音とともに適当に刈っていくと、あら、素敵なショートヘアの完成。
『3分クッキング』もびっくりでしょう。
(3分じゃ散髪できないけど)
バリカンに付属品を付け替えながら、刈っていくのですが、付属品やバリカンを収納する箱が、仰々しくないのもいい。
パッとできるから、いいんですよ。
しかも、ホコリをつけたくないから、使わないときは収納しておきたい。
丁度いいですね。
 
今までの経験が活かされるのは、仕上げのハサミと、合わせ鏡ぐらい。
そう、ハサミは高校の頃から使っている。
腹筋プルプルもしなくなりました。
(腹筋がついたのではない。仰け反らなくなっただけだ)
 
15年の間の、パナソニックさんの企業努力で、ぼくはいま、ラクちん生活です。
(プロダクトもガイドも、デザインはもっと良くなるけどね)
 

一ヶ月、休まず書けた。

2018.7.8

ふふふ、一か月更新休みませんでしたよ。
その間、良くも悪くも、いろいろありました。
 
おかげで、ブログタイトルを、褒められることも出てきました。
野暮なことをバラすと、ブログ全体のことを表しつつ、七五調という技術もね、使っているんですよ。
いまはもう、こんな事を話すコピーライターとも出会わなくなってきましたね。
 
寂しいとかじゃなく、そういう時代なんですよね。
「一人遊びは退屈しのぎ」ということでしょうか。
ちなみに上のは、七七調。
(くどいって)
 
ぼくは行ったことがないけれど、俳句のように、即興で読み合う遊びもあるみたいですね。
写真を撮るのも、ひとつの遊びだったような気がします。
特に、スマートフォンで写真を撮れるようになってからは。
Instagramなんて、まさにそうでしょう。
 
ぼくらはプロ用の画像加工ツールがあるから、昔、友人の写真家と、ひとつの写真データを加工しながら、往復書簡のように、メールで飛ばしあいをしていました。
あぁいうのも、テクニックが必要な遊びでしたね。
 
最近、そういう遊びをしていないなー。
プロとプロが出会って、下心を持たずに遊ばないと、できない遊びなんですよね。
その後に、ひとりに戻って、いいものが作れたりするんです。
 
「遊び相手と一人の時間」という締め方で、今日の話はおしまいです。

自分をネタにする。

2018.7.7

「あぁ、しまった」と思いました。
今日(投稿では昨日)のブログで、『図書館という不思議じま』と書いたけれど、おならの話なんだから『図書館という不思議こく』の方が洒落がきいてるし、「不思議な国」じゃないか。
実は投稿が反映される前に気づいたのですが、修正はしませんでした。
その代わり、今日の投稿で、自分の落ち度をネタにします。
 
昨日の話も、最終的には仕事のやり方の話だったのですが、こういう話を「こうしたらうまくいきまっせ」のビジネス書のように書きたくないから、ふざけていると思われようが、ああいう風に書いているわけです。
それは「こういうのはマズイよ」と、脅しをかけるような話の仕方もしないのと、まぁ、同じことですわ。
文体がごちゃまぜになっているのも、同じこと。
 
ヒトの頭の中って、ほんとうはもっと、ごちゃまぜになっているでしょう。
これを、図にしたり、言葉にしながら、整理していっているのです。
でも、整理しすぎたものが続きすぎると、どこかでつまらなく感じてしまうでしょう。
 
ちょっとごちゃまぜな鍋を食べた日もあるでしょう。
そんな風にして、ぼくは言葉を書いているのです。
キャッチコピーを見せるときとは、やり方が違いますよねー。