分かりやすさの弊害は。

2018.7.11ビジネスの健康, 日々のこと

ここ最近、「分かりやすさの弊害」について考えることが多くなりました。
分かりやすさだけで育つと、ヒトはどうなっていくのだろうか。
 
ヒトは面倒臭がりで、ヒトの脳みそは、とても面倒臭がりな生き物です。
つまり、企業の製品やサービスを買うお客さんは、基本的に面倒臭がりなのです。
だから、企業はお客さんに嫌われないように、なんでも分かりやすくします。
簡潔に、言いたいことを述べる表現を推奨されたりね。
 
この最もたるのが、説明的な広告です。
ユーモアとか、培ったセンスだとか、野暮なことを言うと、話術だとかは必要ないです。
 
クスりと笑わせたり、「あ、そうか!」と発見があるような広告って、もうほとんど見なくなりました。
「なんか、いいんだよなぁ」と、とっておきたくなるような広告は、さらに見なくなりました。
「すげぇかっこいい!!」と、思わず盗みたくなるような広告なんて、皆無です。
 
説明的になる一方で、述語的表現も稚拙になっているようなね。
「分かりやすい」と「分かりにくい」だけの判断軸で物事を進めるのなら、機械につくってもらった方が優れているでしょう。
しかも、データによって答えを出そうとするのだから、ヒトが入り込まない方が、いいでしょう。
 
そうすると、人間は問いを出して、売る商材を決めるだけのような気もするけれど、それも自動化する方が的確でしょう。
こうなったとき、「分かりやすさ」ではない要素をヒトに求めるようになるでしょうが、「分かりやすさ」しか鍛えてこなかったのだから、ヒトは何もできなくなります。
 
もしかしたら、違う何かが育つのだろうか。
ユーモアじゃないもの?
それとも、ユーモアの形が変わるのか?
そんなことを、最近考えています。

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