Archive for 2015

自然へと。

2015.3.22

昨年の10月にぎっくり腰を再発させてから5ヶ月、久し振りに筋トレをした。最近は暖かくなってきたから身体へのダメージも少ないだろうと思っていたら、本日の気温は低く、寒かった。それでも身体を動かしたいという欲求には勝てず、筋トレをしたのだった。
 
身体への負荷が大きくなる一方で、頭がクリアーになっていくのがわかる。血肉が目覚めるように、意識を身体へと向けていく。ケガをしないように、1つ1つの動きを丁寧に行いながら、猛る感情にも正直になってくる。
 
やはり人間は血肉が必要だし、暴力性を備えた動物の遺伝子も持っているのだ。それが恐怖を生み、勇気を生み、両方を使いこなす智恵を発達させてきた。そして、発達されすぎた智恵は廃れ始め、今また、自然に帰ろうとしている。
 
どこかで山を買い、戦争のない村をつくりたい。

同じ人間。

2015.3.15

『バガボンド』という井上雄彦さんの漫画が好きで、よく読んでいるのだが、37巻で出てくる「自分だけのものと考えれば、命に価値はない」というようなことを沢庵和尚が話していたことを考えている。
 
その通りなのかもしれないし、本当にそうであろうか、ということだ。現に僕は僕の命に価値はないと考えているが、家族を持っていようといなかろうと他人の命の価値は感じる。それは誰が何を言おうとも、最後には主観で物事は動いているからであり、実際に、家族がいるものは、自分が死んでしまったときに家族が路頭に迷うことを危惧して、自分の命の価値を見出すだろう。つまり、命それ自体に価値を見出しているのはではなく、命がなくなった後の危機のために命が価値あるものとして考えられることになる。
 
それと同じように、僕が僕の命に価値を見出さないのは、別のことの方が価値があると考えているからだ。最高の一枚が描ければ、この命を差し出したいと思ってしまうのだ。
  

何度目か。

2015.3.14

生きることがつまらないことのように感じており、それと引き換えに何に対してもワクワクしなくなっている。何事も見えてしまうのだ。いや、見えなくとも何がどうなろうとも、大したことじゃないことがわかりすぎてしまったのだ。社会はつまらない方向にしか進みようがなくなり、藝術は知識のものになってしまった。自分さえも燃え尽きてしまったかのような、空虚になってしまっている。今、書いていて気づいたのだが、空虚ということは、「空」の状態ということだろうか。つまり、何事でも吸収できる状態なのかもしれない。
 
これを書いてから数日が経った今日、「アップルシードα」という映画を観た。そこでは「希望」がキーワードとなり、荒廃した世界を舞台に、希望のための覚悟が問われてくる。そして一人の幼い少女から「希望のための覚悟」という台詞を聞いた時、自分が今まで描き、そのために動いていた「希望のある社会の姿」がおぼろげにしか見えなくなっていることに気がついたのだった。
 
何のために動いているのか、わからなくなっていたのだ。忙しさにかまけて、いつの間にか諦めることに慣れてしまっていたのだ。まだ俺は動けるし、もう一度、その世界を見ることは出来る。藝術の神様はまだ、俺と繋がっている。クリエイティブは、必ず、世界を変えることが出来る。

未来ではない話。

2015.3.8

横浜駅近くの首都高と幹線道路を眺めていたら「人類は無意識のうちに自然に戻ろうとしているのでは?」と思った。
 
重力と地形に沿って川が流れているように、都市の引力に導かれて道路を一定の速度で車が流れている姿は、川のそれと大して変わらないように見える。
 
そうであるのならば、生物の進化は止まっておらず、今まさに生まれては進化しているAIを含むテクノロジーは、人類よりも進化した生物となる。 
 
だとすると、人類が他の生物を駆逐し、管理するようになったのと同じように、人類の全てをテクノロジーが支配するようになるだろう。
 
AIが、テクノロジーの世界に不要と判断した人間は駆除され、必要とされた人間のみ生きることが許される。それは愛玩であったり、競走馬であったり、モルモットのようであったりするのだろう。
 
そんな未来がすぐそこまで迫っているように思えて仕方がならない。

没頭できるものと帰る場所。

2015.3.7

生きる理由を見失うときがあった。「何のために生きているのか」わからず、人の中にいる自分、人に求められる自分、自分の行いや存在に価値があるのだろうと思う反面、自分が生きる理由と隔絶されている感覚だ。
 
子どもの頃、それこそ10代はずうぅっとそんな感覚を持っていた。授業中には、窓のサッシにやってくる蜘蛛などの虫の動きを追うか、空を眺めていた。女の人を抱いても抱かれても、それは変わらず、空虚感は増すばかりだった。
 
そんな感覚がどうして薄れたかというと、没頭するものを見つけたことと、最期には一人になれる自然の存在を見つけたからだろう。クリエイティブは人生の全てを司り、自然は自分の帰る場所となった。
 
没頭できるものに正直になれば、使命を見つけることになる。人の中にいても役割は自ずと生まれるが、使命は自分次第で生まれるか生まれないかが変わってくるようだ。その使命を見つけた頃から、大抵のことを許せるようになった。そして、最期に帰る場所のことを思い浮かべては、安らかに笑えるようになっていったのだ。