Archive for 2015

翻弄。

2015.4.13

先日、映画の話をしていたら、「やさしい」と言われて驚いた。何故、そのようなことを言われたのかもよく分からないが、誉められると同時に、「そんなことを考えているから、頭が疲れちゃうんですよ」とも怒られ、久し振りに笑うしかなかった。
 
考え過ぎとはよく人から言われるが、考えて動いてまた考えて動いて、それでもまだまやれるんじゃないか、という気持ちになってしまうのだ。
 
そんな時に、上記のような翻弄されるようなことを言われるのは不思議だが、リラックスできる時間だった。雑談の時間ぐらい、頭を空っぽにするのも良いかもしれない。

「ゴーン・ガール」

2015.4.11

「ゴーン・ガール」を漸く観た。とても恐ろしい映画である一方、こういう女性に惹かれてしまうのも男の性でしょう。そして、妻の話す状況からどうやって最後の凶器を手に入れるのかを疑問に持った主人公に対し、妻が戻ってきたことに安堵しろよ、と話す警官(世論)という図式など、社会のあり方も提示している。
 
台詞の中でも随所に見えるが、「振る舞いによる世間一般の見方」を巧みに利用している。それは普段僕らの生活でも随所に出てくる場面であり、意図的にしろ、そうでなかったにしろ、人はそうして言動を選んでいる。
 
そして、意図的に使い分けることの出来る人間が、自分の望むものをある一定の社会の中で手に入れられることを表している。あくまでも、ある一定の社会の中でだが。それも示してしまうのが、デヴィット・フィンチャーの良い所だろう。彼女は、別の社会に入れば、無知で、力の無い、獲物になりえるのだ。
 
やはり、面白い映画だ。

想う。

2015.4.4

ひとりの人を想い続ける。もう一生会えないからということも手伝ったとしても、この世に中に、そんな人がいても良いだろう。

余白のアンテナ。

2015.3.29

知らない町を歩くのは、新鮮で良い。今日は訳あって椎名町に行っていたのだけれども、「あぁ、いつもと違う」と感じた。
 
日本の町並みはどこも似たようなものだけれども、町にはその町なりの匂いというのがあるのだろう。椎名町は、漫画で有名な「ときわ荘」があったらしく駅構内にも紹介看板が大きく飾ってあった。
 
オーダーメイドスーツのお店に行ったからだろうか、職人の町という匂いが道中にしていたが、実際はどうかはわからない。職人というのは何だろうか? 僕もよく「職人気質ですね」という誉め言葉をもらうが、妥協したくないという想いの先に、職人という言葉が出てくる。
 
しかし、そうだとしたら、全ての人が職人になった社会というのが存在したら、それはそれで大変な社会だろうな。どこかで余白のようなものが欲しくなるのだろう。
 
この余白というのは、知らない町を歩く新鮮味に似ている。ハッとする発見があったり、普段と違うアンテナが立つような感覚だ。心や身体に余白がないときというのは、そんな余裕はなく、ぎちぎちの状態だ。
 
妥協しない想いとアンテナが立つような余白——それを併存できる人間でありたい。

いらない境界線。

2015.3.22

世の中には色々な権利や地位というのがある。そういったものは、グレーゾーンっていうのはあまりなく、ここまでが私のものというような具合で明確に分けられる。地位においても同じで、役職、年齢、国籍などというような形而上学的なもので分けられる。
 
いわば、本来曖昧だったものに、「境界線」を概念上に設けているのだ。
 
概念上に設けているだけに、たくさんの問題が間接的に生まれてくる。領土権だとかパワハラなどもそうだろう。人間の中で人間にしか通じない境界線のために、生まれてくる問題だ。
 
しかし、本質の話をすると、我々は地球に住んでいるという前提がある。視界が届かないところまで陸や海は続き、山で遮られる。実際に生きる上で必要なものなんてのは、目の届く範囲でしか効果がない。
 
そんな前提を無視して、目に見えないもので境界線を設けるから、問題が生じるのだ。