Archive for 2014.3

2014.3.21

「LIFE」という映画を観に行った。
 
ラストシーンを見ていて、「死ぬのが恐い」と思った。「だから、一人で暮らすことを選んでいるのかもしれない」と思ったのだった。
 
生きる喜び、奇跡は自分が動いてこそ生まれるものだということを、表している映画だった。

2014.3.19

感謝ということの反対側に、苛立ちというのを置いてみる。すると、日常は、苛立ちの連続かもしれない、と思えてしまった。家を出る時に、ゴミ袋を持っている際に、ドアの鍵がかけにくいこと。わざわざゴミ袋をおくこと。
 
行動にまつわる様々なことに苛立ちを覚えることは出来るが、同じような自然さで、感謝を覚えることが出来るのだろうか。考えをもって、初めて覚えるような感情のように思えてしまうのだ。
 
わくわくすることも、自然と出来る。その感覚は、苛立ちと似ているのかもしれない。愛の感覚も似ている。けれども、感謝というのは、何故か、遠いような気がしている。

2014.3.19

感謝というのを、どれだけしているのだろうかと、昨日から考えだした。考えだすと見つかるし、普段のやりとりでも、「あざす」や「ありがとうございます」など、感謝の言葉を使うことが多い。
 
しかしだ。
 
「よりいいもののために」と、そうではないことは潰しにかかることの方が多く、日々はそのことの連続になっている。
 
そして、感謝について考えはじめると、まずはこのギャップが頭をよぎるのだ。人の言動に感謝をする一方、また別の言動を潰しにかかる。これを、ギャップといわずに何と呼ぼうか。

2014.3.15

笑顔が素敵な人と出会うと、その日一日が報われたような気持ちになる。それほどまでに、笑顔の力は凄まじいってことだ。

ハッピーエンド

2014.3.14

フィクションはハッピーエンドで終らなければならない、と思っている。最近、「報われる」ということについて考えるようになったのだが、死んだ人達のことを考えると、「幸せだったのだろうか」と疑問を抱くことと似ている。若くして亡くなった友人達、寿命や病気、自殺で亡くなった親族達、数えだしたらきりがないがいつも思うのは「幸せだったのか」ということだ。
 
それとは、リンクせずに指針となっていることに「胡蝶の夢」がある。
 
最近、「報われる」ということについて考えるようになり、その言葉を使う頻度が上がってきたせいか、冒頭の「フィクションはハッピーエンドで終らなければならない」という持論がはっきりしたのだった。
 
現実だと思っているものは、蝶が見ている夢かもしれない。そうであれば、この現実はフィクションかもしれず、フィクションならばハッピーエンドで終らなければならない。つまり、亡くなった人達はフィクションの幕を閉じたのだ。それは、ハッピーエンドだったのか——死ぬという、多くの人が最大の苦痛として考えていることを経験しているにも関わらず、その人達は報われたのか——それが、長年抱いていた疑問だったことに気が付いた。
 
結局、死に顔を見て、判断するしかないんだが、いつも会話をすることになる。