Archive for 2013.2

あはれ

2013.2.18

以前にも書いたが、昨年あたりから「あはれ」という言葉がわかるようになってきた。頬を撫でる冷たい風もそろそろ終わりだな、なんて思ったり、カサカサの葉っぱを触ったりしていると感じる悲しさ。
 
それはやっぱり悲しいんだけれども、負の印象ではなくて、美しいと感じる。悲しいはずなのに、僕の中は悲しみで溢れているのに美しさを感じるときのような感動がある。そうして涙がこぼれてくる。
 
それを言葉で表そうとすると、「あはれ」という言葉がしっかりと着地してくれる。
 
お茶の暖かさ、豚汁の安心感、人の温もりや道具の冷たさ――全てが悲しくて美しい、あはれにさせてくれる。

咲く前

2013.2.17

この時期になると毎年思うけれど、花が咲き始めると嬉しいものですね。同じ団地の敷地内に植えてある小さな、小さな梅の木が花をつけていたんだけれど、やっぱりそれは嬉しいです。
 
けれども、そんな梅の花もこれから咲き始める花々も、冬のさむ~い日々に種を蒔き、根をはり、木を育てて、目立たないながらも活動していた。この「目立たない活動」がとても大切だよねと日々思えるのも、表立って発表とか人前に立つことが多い、派手な職業だと思われることが多いからかもしれないです。
 
寒いと外に出たくないものですが、外に出ないとな~んも始まらないもんね。北風ぴーぷーで気温も低い日は、こんな想いで人に会ったりするのも良いでしょう。

良い意味で歳を重ねた

2013.2.16

そういえば先日のイベント時で「オッサンになったよね~」なんて冗談ぽく話してて、本当の中高年の方々からは笑われちゃいそうだけれども、僕が写真を撮る理由や写真を続けている理由を上げるときに「写真が好きなんだよね」って言うようになったこととも関係している。
 
まだ10代なり、20代も前半の頃っていうのは「写真がなきゃ生きていけない」だとか、「○○がなきゃ」って上げては生きる理由を話していたが、当時のその言葉よりも、今の年齢になっても「写真が好きなんだよね」と笑顔で言うことの方が強い言葉のように感じている。傍から見ていると、続けてきた実績もあるのかもしれないが、もっと根源的で当り前な話であり、ポジティブなんだよねってことかもしれない。
 
愛情の物語が古典から永遠続いている理由も、実はそれぐらい当り前の話なんだろうなと腑に落ちてきたのも最近のことで、「炊き出しやりてーなー」と言うようになっているのも最近だな。「友達と作るご飯やお酒は楽しいよね」っていうのも至極当り前の話のはずなんだよねー。

昨日はありがとうございました。

2013.2.15

昨日はA RADIOをご視聴いただきありがとうございました。途中録画されていない部分もありましたが、作品や写真の話は3割程度で、残りの7割は人間の話をしていました。なので、写真を職業にしている人にも、写真に興味がない人にも伝わる話だと思います。
 
放送していない時間も含めて、秦雅則さんと半日話していました。相手や視聴者のことも考慮して、自分の考えを話すことの出来る友人を持つのは嬉しいです。そして、同世代の友人と話をするというのは、楽しいものです。人間が会話をするっていうことは、そんな単純なことなんですよねー。人間誕生以降、会話をする歴史がなくならないのは「楽しい」からだと僕は考えています(マジで)。
 
世知辛いニュースや不況なんかで閉塞的になりがちな世の中ですが、愚痴で過ごすんじゃなくて、「楽しい」っていう気持ちに正直になるのもそんな世の中を打破する手段になるかもしれませんね(再びマジで)。
 
実際、楽しいと「どうしたらもっと良くなるか」と考えるので、付いてくるように失敗した部分も考えます。そうしたら、次はもっと生産性が高い会話になって、やっぱり楽しいんだから、その行為は続いていくでしょう。子どもの遊びを見ているとよくわかります。
 
つまり、作品をつくることと一緒なんですよね。「楽しい」っていうことに心を開けば、質は上がっていくってねー。
 
 
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生放送を見逃した方はこちら
(今日は柳町匡俊さんが登場!)
 
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克己復礼

2013.2.14

「ディレクターになると、実作業が出来なくなる」
 
何度か耳にした言葉であり、どこまで出来るかわからないけれど、今の所は嘘だと思っている。
 
メールの書き方、返信速度、性質を無視したパターンメイキングなどピンからキリまで実作業が出来なくなる要因はあるが、根っこの所は全て礼節の有無だと考えている。どうしたら適切な形に出来るか、過不足なく相手に伝えられるか、優先度を高めて拘束度を下げる連絡――全て自己洞察から生じる相手への配慮であり、一言でいうと「克己復礼」である。何でもかんでも相手に合わせたり、我を通すということではなく、必要なことを適切な形で行うために大切なこと、それが礼節ではないだろうか。
 
僕の携帯電話のメールアドレスは意味不明な記号の羅列のように思われるが、実は「克己復礼」を英訳して単語の頭文字を使っている。そして、この故事成語の頭文字「克」は僕の名前である。良い名前をつけてくれた家族に感謝と言いたい所だが、この漢字が使われているのは、これが最後として生まれた子どもに自分の名前の一部をつけたかった父親の我が儘であり、故事成語に意味付けしたのは僕なので何とも言えないな。きっかけをくれたと言えばそうだが、意識の高い人間にそれを言ってしまうのは、その人の行いを踏みにじり過ぎだろう。