Archive for 2011

最後の最後には

2011.10.6

 多種多様な道具を使い、多岐に渡ることをして、他業種の方々と会っていてもプラスに変えることが出来るのは、一切の道具がなくなれば大地に絵を描けば良いことをわかっているし、手足が動かなければ頭の中で作品を創れば良いことをわかっているからだ。複雑な行いをしていても、考えがシンプルであれば大丈夫なのだ。
 
 
 それよりも心配になるのが、高校生や大学生と話していて、彼らの言葉が「大人からの入れ知恵」のような手本通りの回答を、何も疑わずに純粋な目で言えているということだ。そして、「完璧」であることを求め過ぎているように見受けられるのだ。ゴールとそこへ辿り着く方法論が分かった上で、ゴールに辿り着くという意味で「完璧」という言葉を使っているのであれば頷けるが、どうやらゴールにならないあやふやなところに完璧さを求めているようなのだ。それ故、大人が少しいじわるな質問をすると、途端に自信をなくしたようになるのが、先の彼らの発言が自分の言葉として言えていないかという証明になっているというのに。けれども、そういう子に限って優しいし生真面目なのだから、「大変だろうな」と人の子ながら気になってしまう。
 
 

人と…

2011.10.2

 今週は、人「と」生きることについて考えることが多かった。たとえ誰とも会わずに生活をしていても社会に属していれば、間接的にでも人と関わることになってしまう。ただ今回は直接的に関わることについて考えを巡らすことが多かった。PCに関わる全てのことの師匠と呼べる人と離れる時に、Macを更に安定させる「おまじない」を教えてもらい、最後の最後までお世話になりっぱなしで僕は彼に何を返すことが出来たのだろうかと…その他にも色々と重なり、「人と一緒に生きること」について考えることが多かったのだ。
 
 しかし、行き着く所がいつも「作ること」になってしまうのだった。物心ついた頃から「作ること」と「内省」を繰り返し、今や呼吸をするのと同じ位、当り前のことと化してしまったこと。極度の面倒くさがりの自分が日々の面倒臭いことも行えるのは、作ることに関わってくるからだったり、人と話をしていても最終的には作ることに結びつけていることが多い。それほどまでに身に付いてしまった「作る」という行いは、そうではない環境へ自分を向かわせないという一面もあるのだが、
 
 しかし、これも子どもの頃から身に付いている「物事に優先順位をつけること」の習性によって、「作ること」が最上位にきてしまうのだった。
 
 今の繰り返しが未来を創るが、果たして、この先に何が出来、何があるのだろうか。

影と秋の空

2011.9.25

 制作中、影の存在に驚いた。そのことを考えていると、子どもの頃にやった「影法師」という遊びを思い出した。地面に映った影をしばらくの間じぃっと見つめた後に空を見上げると、空に影が白く見えるという現象だ。空に映った影は、巨人のようで自分の影のようには見えなかったとともに、自分から生まれた影が空を浮かんでいることに「おぉ、人間って空が飛べるんだ」と感動した記憶があるような気がする。欄干に腰を掛けて足を遊ばせていると、そのような気持ちになるが、そのまま飛び降りても空が飛べるはずもなく、それならむしろ意識を上に向けた方が浮いている感覚になり、それが現実になるのだから、意識と現実感というのは上手く出来ていると思った。

水のようだ

2011.9.24

食が細くなったのかもしれない。友人から指摘されて気付いたのだが、思い当たる節はかなりある。食べることが面倒臭いと思うことが多く、好きなものや食べたいものもあるが大抵はつまむだけで充分になってしまう。基本は自炊だが、仕事のための体調維持やラクに栄養摂取するための食事を続け過ぎたり、懐かしい味を求め過ぎたのかもしれない。食に対して「究極的に美味だ」と、瞬間的な悦楽に浸ることがなくなってしまった。いや…食に関係なく、瞬間的な悦楽に浸ることは何年前から無いのだろうか。永遠性や普遍性、平等性を考えてきた副作用とでも言うのだろうか、世の中の多くのことが彩りながら、均質化していっている。

台風15号で休憩

2011.9.21

納品、納品、納品、入稿、額装(ニヤリ)、更新…日々は滞濁しらずの川のように勢いよく流れていたが、台風の影響でどこも「もうお終い」の様子。自宅も外の音には弱い造りなので、台風の日は室内の音がほとんど描き消されてしまい、集中力もあれよあれよと台風の方へ。こういう時は流石に諦めて、ゆっくりと過ごそう。