Archive for 2011

システム

2011.6.23

 「お金は水物」だと考えている。財布の中のお金は、(誰でもわかっていると思うが)入っては出て行く。預金は不動のものと思う人がいるかもしれないが、『方丈記』の「行く河の流れは・・・」でも言われているように、全体としての河の流れは変わっていないように見えるが、その河の水は一度として同じ水が流れていない。つまり、全体としての預金額(通帳に記載されている数字)は変わらないものだと思うかもしれないが、その中身は変化している、というよりも、どのお金でも良いのだ。それ以上に、記載されている数字でお金の有る無しを理解し、日本銀行券がお金として使用出来ると理解しなければならないので、財布に入っているお金も預金額も不動の状態にしていたとしても単なる概念上のものだと言える。
 
 それは以前書いた為替相場の話でも触れているのだが、現在、作品のスケジュールと予算をまとめていて、この予算額を「はした金」と捉えるか、「大金」と捉えるかは人によって違うのだ。人が関わる以上、この書類を提出しなければならない立場にいるから書いているのだが、なんだが笑ってしまう話のように思えたのだった。こういう書類事は(職業として)作品を売ったり、クライアントワークスをしていたら頻繁に出てくるが、そういう書類を提出しなければ安心されないシステムの社会だと暗に意味していたりもする。そして日本の場合、最終的には「システムよりも人情よね」という本音を抱きつつ隠すから、齟齬やジレンマを大変な状態になるまで抱えてしまうのだ。
 
 「システムはシステム」として割り切り、気に食わなければ、既存のシステムを作り直すか、違うシステムの場所に行くか、1からシステムを創るかの3つしか選択はないのだが、このような考え方を言うと「冷たいね」と拒絶される。しかし、その台詞に人情はあるのか? と訝しく思うのだがねぇ。

神々しい手技

2011.6.22

 今朝電車に乗っていて、僕の座っている反対側の席の右斜め前に立っていた女性(つまり、僕から見ると左斜めの後ろ姿が見える)が髪を束ねていたのを目撃した。一瞥して気付き、「ずっと見ていると変態みたいだな」と思ってそのまま読んでいた本の続きを読み始めたのだが、動きが長々と続いていることに気付いた。動作の振動が伝わるというのだろうか、とにもかくにも髪を束ねるのに相応しくない動作の時間だと気付いたのだった。再び、彼女に目をやると、束ねるのではなくて、お団子に結わいていたのだった。僕が見ている間も、長くてするりと整えられた髪はあれよあれよとお団子に整形されていき、完成まで僕は見蕩れてしまっていた。彼女の細い指が柔らかく動き、指の動きに合わせて、髪の毛がその整形の道筋しか知らないかのような動きでお団子へと変貌していく姿が美しいと感じていたのだった。
 
 昔から、知人女性などでお団子姿の人を見かけると、中心の(ように見える)窪みに「えいっ」と指を突っ込んでは怒らていたのだが、今朝の女性の手技を拝見して「もっと丁寧に扱わなくてはいけないな」と誓ったのだった。

2011.6.20

 興味深いメールが届いたが、結局、闘いからは逃れられないんだな。

更新

2011.6.18

with 10 years

結局は快楽主義者

2011.6.18

 これを読んでいる人達からすると、「筆を使うこと」が僕にとっては当り前のこととして捉えているだろうから(そうじゃない方はportfolioを参照して下さい)、そのまま話をすすめさせてもらうが、筆入れをする作品がある。筆入れをするのは写真プリントであるが、そのプリントにも時間もエネルギーもコストもかかっている。1mを超えるのも当り前で、それを昇華させるために筆入れをするのだが、プリントは塗料を削ったり消したりしようとすると、その下の写真の絵柄まで消えてしまうのだから、失敗して消すというのがありえない。もしも、(消すのも含めて)修正をするのなら、そこからまた昇華させる道筋を見なければならない。
 
 そんな訳で、筆入れをする時は一筆一筆、「えいや」っと清水の舞台から飛び降りる心境だ(大袈裟ではなく)。そんな時には、全身の神経や細胞がヒリヒリするのだが、やはり、死を身近に感じたときに抱く感覚と似ている。そして、さっき便所で用を足している時(枕上、鞍上、厠上の「厠上」だ)に気付いたのだが、「真ん中」というのも同じなのだ。真ん中というのは、少しでもずれたら正や負に落っこちてしまう。さっき、清水の舞台から飛び降りると書いたが、死を身近に感じるのは縁に立っているときに抱く感覚であり、落ちてしまったときに感じるものではない。つまり、縁に立って「おっとっとっと、おっとっと」としており、自らその場所に立っているのだから遊びに行っているようなものだ。映画『ハート・ロッカー』の冒頭にも出てきた「戦争は麻薬である」という言葉通り、死を身近に抱く感覚は、その現場にいるものにとっては麻薬であり、進んでその場所に立とうとする自分は、快楽主義者である。
 
 そのことは重々承知の上だったが、まさか「真ん中」の感覚までそこに繋がるとは思いもしなかった。
 
 以前にも書いたようなことを今更書いているのかというと、色々なことを「やめよう」と思ったり、新作『人間とは(仮)』のラフ画を描いていたりしていたら、「眠っている間にも魂は燃えている」が再び動き始めたからだ。「眠っているー」は約1年の間、壁に貼付けて常に見ている状態にしながらも制作が止まってしまった(完成がみえなくなってしまった)作品である。その作品が「やめる」ことを選んだ結果、「動き」始めたのだった。そして、今までの多くのことがその1枚に結集され、その先に待っている『人間とは(仮)』に繋がっていくのだから、今の状態以上に人生の面白味を享受しないことはないだろう。