Archive for 2010.8

一番の謎

2010.8.8

 最近は、速度について考えていることが多い。生きる速度は平等なのだろうか。夭折してしまう人もいれば長寿の人もいるし、太くて短い生や細くて長い生についても何度か聞いたことがあるだろう。しかし、時間は一定に進み、仮に後退しているとしても、一定に移動しているのが時間であり、私たちはその中で生きて、死ぬ。速度を感じる時や、遅いと思う時でも時間は一定に流れている(はずだ)。

 しかし、「速度が大切」と思うときもあり、そう思えるのは、「時間は一定」という先に挙げた事柄を理解しているからである。そして「時間は一定」と刷り込まれているからこそ、急いだり、案件の重要性を考えて打ち合わせや作業のペースを考えたりするわけだ。もしも、時間が自由自在に扱えるものだとしたらどうだろうか? もしくは、時間が勝手に遅くなったり、速くなったりしてしまったらどうだろうか? 急いでいるのに時間が速く進んじゃう、時間を持て余しているのに遅く進んじゃう。人生は無常だ、だからこそこんな風に時間を感じるのだろうが、それでは、「時間は一定」だろうが変化しようが、同じなのだ。それは、自由自在に扱えたとしても、同じように扱う(扱うということは認識しているということだ)だろう。つまり、自分の認識次第ということなのだ。無限だと認識すれば、無限になれる。

 けれども、そんな中であっても、人間は生きて死ぬのだろう。時間さえ超えた、これほどの謎だからこそ、今までも多くの人達が考えている問題なのだ。この問題を解いている時が、一番、面白い。

実際にあった想像力

2010.8.7

 今日、三田から日吉までの電車に乗っているとき、隣に座っている女性に肩を貸していた。ただそれだけのことだし、僕もよく借りる。しかし、今日はちょっと違った。先に僕が端っこに寄りかかって寝ていたら、顔に「ふぁさぁぁ」と何かがかかる。眠さもあってはじめは気にしていなかったが、サワサワといつまでも触れてくる・・・ん? 左肩から左頬にかけての重みは? 目を開けると、ちょっと予測していたよりも完全に肩、というか体を貸しているじゃあないか(こういうこともけっこうある・・・油断しているのか?)。しかも、下は黒の無地で上は白の無地・・・僕と同じ格好で、眠り合うってバカップルか? と1人ツッこむ。しかし、「まぁいいか」と切り替え、急行に乗り換えるのを止め、そのまま肩を貸しながら普通電車で日吉まで行くことにした。その女性が途中で降りようが知ったことじゃあない。僕はこの女性が起きるまで肩を貸し続けようと決意したのだった。だがしかし、この女性、途中で起きる度にもとの姿勢に戻るのだから、何となくいけないと思っているのだろう。だとしても、毎度毎度、このもたれかたは尋常じゃない。むしろ心配になってくるほどだ・・・と思っていた矢先、逆隣のおっさんの方に行ってしまうじゃあないか?! なんだ、何なんだ、この気持ちは?! ガッビーン。失恋。いや、しかし、それでへこたれる私ではありません! この後は重たい内容のミーティングがあるのだ、その前に少しの和らぎをください!けれども、いたいけな青年をあざ笑うかの様に、左側の空虚感は増すばかり。おっさんに負けてから2駅ほど経ち、中学生並みの想いも薄れて惚けていると・・・ハッフーン!? もう体から入ってくるじゃないですか。中学生の時のアバンチュールから、19歳で再会したあの時の君、なんて艶っぽく、そして清楚に成長したんだ。この荒みきった廃墟の中に降り立った女神だ。そんなことを想起させる程の力を持つ、左隣の女性。一体この力はどこから来るのだろうか。疲れているのか? 本当に恋か? 妄想か? 仮想現実ってやつか? マトリックスとか、あっち側の世界か? 左から中心にかけて圧力を受け続けながら、そんなことを考えていたら、あっという間に終点の日吉駅に着き、流石にもたれかかっている女性を起こさないといけないと思ったので起こそうとした矢先、「シューテンでーす!!」と叫ぶ駅員。起こそうとしていた体勢から、おっとっとっとと、と体勢を直したので立ち方がきごちなくなる。女性も寝ぼけ眼で電車から出るのだった。駅員は最強だ。

The Outerspace 第2期

2010.8.2

 「コミュニケーション?展」も終りました。僕は金曜日の夜しか行っていないのですが、他の日は皆さん話したのでしょうか?(日曜日に行った友人曰く、秦さん以外しゃべっていなかったとの報告を受けたのですが・・・)

 さてさて、事後報告ですが、実は展示作品には「The Outerspace」の発展する姿が隠されていたのです。FOILでの企画展で初お披露目だった作品を、限定仕様にして今後の姿を垣間見せていたのでした。

 第2段階に漸く突入です。とてつもなく大作です。ちょっと大変ですが、出力したくなっちゃうほどです。乞うご期待。

軽くなる

2010.8.1

 最近、財布の中のカード類を、頻繁に使用するもの以外は抜いた。すると、診察券やポイントカードの類いはポイポイ抜かれていき、それらが抜かれた後の財布の軽さが妙に可笑しかった。引かれた重さは所謂、安全パイの重さである。「もしかしたら使うかな」という気持ちが積み重なり、財布が厚くなり、座る時の体勢を崩すことになっていた。僕は長財布を使っており、カード類もそれほど溜めないようにしていたのだが、それでもこんなにも違うのだから、そうではない人達がこれをしたらどんなに軽くなるのだろうかという思いがよぎった。

 ここでの話は、「安心感を得るために、身動きがとれなくなる」という逆説である。「もしかしたら」なんて実際はほとんどないし、大抵のことは予測して動いている。それらが予測出来ていないのならば、危機管理能力や洞察力が低いか、「もしかしたら」なんて、たいしたことではないようなことであったりする。かかりつけの病院の診察券がなくとも、その場でなんとかしてくれるし、そういう病院でなければ初診なのだから新たに作られる。ポイントカードだって、使用しなければいけない場合は、大抵、そのお店に行こうと思って行っている。

 そして、これらが抜けることで得られた軽さや体のバランスへの効果は、精神的な余裕にも繋がってくるのだから、心身は繋がっているという当たり前のことを実感するのだった。僕がよく言っている、「良い仕事は、良い体から。良い体は、良い心持ちから。」ということは、こういうことからも言えるのだな。自分に気付かされたのだった。

 昨年は、部屋や仕事場の物を片付けて軽くなったが、これからもどんどん軽くなるのだろうか。そう、大切なことはとても単純なことなのだ。余分な物が、複雑にさせ、感覚を鈍くさせる。精神的な環境も軽くしていくのだろうな。