Archive for 2009

個展が終わっても次回作

2009.4.10

今回の個展も無事に終えることが出来ました。

ありがとうございます。

今回のは不思議なことに、新規開拓以外にも繋がりから派生していったり、ずいぶん昔の繋がりのところが現れたりしていた。
そんな時に頭の中で浮かんでくる図は「マッピング」という論文などの構想を練るときの手法図だ。

モクモクと増えていき、繋がっていき、進んでいくと遠く離れたところが繋がりを持っていることを知る。

縁ってもんはつくづくそのようなものなのだろう。

展示最終週は休日にできるかと思っていたら、そんなものは無くなり、ファイルを整理したり、次回展示作品の創作に取り掛かったりと相変わらずの日々になってしまった。
今日も展示の余韻はなく、創作関係が続いていく。

けれども僕は知っている。

縁ってものはわかりきった生命体以外のところでも、生まれているっていうことを。

そうだね、友よ、答えは風の中さ。

2009.4.7

今、今年前半の向かうべきところとしてある、秦雅則さんとの二人展のために撮影や打ち合わせをしている現場なのですが、「明るい部屋」において始まるワークショップ「現代写真倶楽部」の初回内容が決まったので、ここでお知らせします。

ワークショップ「現代写真倶楽部」

企画:明るい部屋
講師:明るい部屋+エグチマサル、and more

初回:4月12日(日)
時間:18:00〜20:00(時間内であれば18:00に間に合わなくても途中参加も平気です)
場所:企画ギャラリー明るい部屋(四谷三丁目 http://akaruiheya.info/contact/contact.html )

初回内容:参加者達の今までの写真などの作品を皆で見ながら、講師紹介や(ワークショップ、参加者の)今後の方向性を話していきます。
初回(12日)は参加費用(6,000円)は徴収しませんので、初回を体験してからワークショップに申し込むことは可能です。

お問い合わせ、お申し込みは明るい部屋( http://akaruiheya.info/menu.html )のcontact( mail@akaruiheya.info )からお願いします。

※ 私、エグチマサルは、明るい部屋の運営などには参加せず、ワークショップの講師/展示作家として取り扱いしてもらっています。

存在していないと思われているような対象

2009.4.3

実はそれほど日は経っていないのだけれども、日曜日からかなりの月日が経ってもいるような感覚がしている。

一応、個展会期は終了したので、墓参りに行ってました。
掃除をして、お礼や近況報告をしながらお墓を見ると、太陽の位置から後光が射しているように見えたのです。
こういうのも会話のように思えてしまえるような、そんな空気がありました。
といっても墓参りに特有のことかといえばそうではなく、意識的になれば、何と向かおうが会話のようなやりとりは成り立つものだろう。
むしろ、一般的に「言葉」と呼ばれているような言語を使えるようになったがために、それ以外のやりとりに会話を認知することができなくなったのではないだろうか。

食事、惚けること、趣味的行動、創作など全ての行いにおいて対象とのやりとりはあり、意識を持つか持っていないかの違いのように思える。

僕はやりとりを楽しみ、闘いたいのだ。

※countzeroでの展示は3月31日まででしたが、4月8日まで観ることが可能となっています。
 御高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

Kさんという素晴らしき人

2009.3.30

昨日は、Kさんが招待席を用意してくれて、勅使川原三郎氏の舞台を観に行った。
一言でいうと、美しい、としか言えないか、発して良い言葉が見つからないのが正直な感想だ。
しかし、素晴らしいものは観て欲しいと願うもので、出来る限りのことをするのならば、読んでみたいというエキシポート(学術的展覧会感想文)をこのタイミングで載せるのもありかと思った。
以下はその感想文。

3.29.09(sun) 「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」(勅使川原三郎、 Saburo TESHIGAWARA)@Bunkamuraシアターコクーン

 友人から招待をしてもらって観に行った。これまで、勅使川原三郎氏のことは知らず、またコンテンポラリーダンス、舞踏を生で観ることはなかったのだが、確実にその虜となった。今までは映像として舞踏をみることはあっても、現代では映像の要素を充分に発揮させているためか、それで満足してしまっていた。だが、今回初めて生で観ることができて、美術やそれ以外の藝術作品同様に生は格別なのだと思い知らされた。
 作品は勅使川原氏と佐東利穂子氏が対面しているところから始まる。二人の動きから、つまり、冒頭から私は作品に呑み込まれた。「これが人間の動きか?」と驚嘆していた思考は、作品を逃さないように網膜と脳裏に叩き込むことだけに集中していた。驚きだけで、感動だけでこの素晴らしき時間を終らせたくはないと、本能的に私の五感は反応していた。冒頭、中盤、ラストに現れる佐東氏のソロの美しさ、勅使川原氏の揺るぎない大地のような動き、KARASたちが入り乱れるカオスという表皮を纏った秩序を見せた時の圧倒性、上演時間はあっという間に過ぎていくと共に、私の座っている席から舞台までたかだか1.5mほどの距離にも関わらず、その先にある舞台が聖域のように感じられ、自分が卑小な存在にさえ思え、流れていく作品を汚さないように身動きがとれなくなっていった。振付・美術・照明・衣装さえも勅使川原氏が担当しているとのことで、作品に対する妥協のなさが一貫性を持たせていた。また、一貫性を持たせながらも、要所要所で音のあり方や舞の匂いが全く異なっているので、いたずらに時が、作品が過ぎていくということはない。これらを一言でいうと、「カオスを纏った秩序」というのが作品への印象になるのではないだろうか。変化という意味では、同じような動きをしたとしてもダンサーによって、服の摩擦音、靴と舞台の摩擦音、呼吸音が全くと言っていいほど違うのだ。それは見た目(筋肉、骨格、服装、髪型など)の違いほどは目立たないものなのだが、微かな差異の集積が一人一人のダンサーの特徴付けをしているように思え、1つの作品が出来るまでの僅かな要素の存在性や重要性を見ていた。
 これはどの領域においても同様のことが言えると考えられるのだが、面白いことに、舞台を観ている私に可視化されるのは写真作品としての「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」なのだ。これは、藝術家としての性質の違いを認識させられることでもあり、また、領域の異なる作品を観ても日常と区切られて思考されることがない、ということが社会の中での自分の性質や領域を考察する良い機会でもあった。このことは日常生活の散歩や食事などからも同様のことが言え、一見すると作品とは関係のないことでも、意図せずに作品と結びついてしまうのが、性質だ。また、この性質は人によって異なり、作品と結びつくとしても領域が異なるかもしれないし、藝術・美術とは異なるものに結びつくかもしれなかったり、そもそも日常とは区別して認識したり、冷ややかな目を向けるのかもしれない。これらの差異が個人の性質であり、誰にも肯定されることでもなければ否定されることでもない。ただ、そのままを認めることが大切なのではないだろうか。
 そして、「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観て私は魅了されたのだ。美しい作品だと。私はいつも考えることの1つに「美しいものはただ単に美しい」というのがあるが、まさにその通りの作品であり、これを形容する言葉、修飾する言葉が見つからず、言葉を失う存在があったのだった。
 とても貴重な作品を観た日であると共に、再認することができた日でもあり、そんな日を送らせてくれた友人に感謝している。

原稿作成日:3.30.09(mon)

これに公にしても平気なことで書き足せることは、これから控えているある人との二人展だ。
僕は昨日の舞台を観ているときに写真作品が視えていたのだが、もうひとつ進むと、その二人展が視えていた。
会場の視察も済んでいないにもかかわらず、僕にははっきりとそれが視えていた。

そしてその後に、目黒川に向かいながらKさんと飲んだビールの味は格別だった。

搬入後、彼と飲み交わすビールの味はどんなものだろうと、楽しみは尽きない。

※エキシポートは批評でも評論でもないので、今後この場に載せるようなことはないと思われます。

嬉しさと責任感

2009.3.29

4回目の在廊日でした。

今日はアート☆アイガ、punctumに行ってから会場入りをしました。
そこで嬉しかったのは、アート☆アイガでお会いした方がそのままcountzeroにお越しいただいたことです。
一過性の出会いが多い業界で、こういうことがあるととても嬉しいとともに、身が引き締まります。
というのは、なるべくエンターテイメントとしての嘘にならないように、正直に作家としての姿勢などを伝えることの責任が高まるからです。

そんな時にいつも思うのが、「もっと違う言葉を使えば語弊が少なくなったのでは?」という類いの考察だ。
やはり私は、専門外、専門内の両方に目を向けて活動を進めていきたいのです。

そしてもう1つ嬉しいことは、一度来廊して下さった人がもう一度来てくれたことです。
これも嬉しいことで、普通、来廊するのには入場料が無料だとしても電車賃や時間、労力を費やさなければならなく、それをもう一度してくれることの嬉しさは格別です。

創作などから比べると間接的ではあるけれども、そのようなことを積み重ねることによって、作家業の責任感は高まっていくのかもしれません。

このような話の繋がりから、今回、アップしてもらったワークショップなどもあります。
作品を創ることが本筋であることは勿論ですが、その要素とその要素になる手助けをすることも私たちの責任なのだと昨年頃から感じ始めていました。そのような中で今回ワークショップの講師としての打診があり、引き受けることになりました。
最近、このような本筋に沿った頼まれ仕事の依頼が増えてきているのはとても嬉しいことでもありますが、やはり身が引き締まります。

自分のことで嬉しいことというのは手放しで喜ぶというよりかは、責任感を感じることでもありますね、ということを切に思います。