Kさんという素晴らしき人

2009.3.30日々のこと

昨日は、Kさんが招待席を用意してくれて、勅使川原三郎氏の舞台を観に行った。
一言でいうと、美しい、としか言えないか、発して良い言葉が見つからないのが正直な感想だ。
しかし、素晴らしいものは観て欲しいと願うもので、出来る限りのことをするのならば、読んでみたいというエキシポート(学術的展覧会感想文)をこのタイミングで載せるのもありかと思った。
以下はその感想文。

3.29.09(sun) 「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」(勅使川原三郎、 Saburo TESHIGAWARA)@Bunkamuraシアターコクーン

 友人から招待をしてもらって観に行った。これまで、勅使川原三郎氏のことは知らず、またコンテンポラリーダンス、舞踏を生で観ることはなかったのだが、確実にその虜となった。今までは映像として舞踏をみることはあっても、現代では映像の要素を充分に発揮させているためか、それで満足してしまっていた。だが、今回初めて生で観ることができて、美術やそれ以外の藝術作品同様に生は格別なのだと思い知らされた。
 作品は勅使川原氏と佐東利穂子氏が対面しているところから始まる。二人の動きから、つまり、冒頭から私は作品に呑み込まれた。「これが人間の動きか?」と驚嘆していた思考は、作品を逃さないように網膜と脳裏に叩き込むことだけに集中していた。驚きだけで、感動だけでこの素晴らしき時間を終らせたくはないと、本能的に私の五感は反応していた。冒頭、中盤、ラストに現れる佐東氏のソロの美しさ、勅使川原氏の揺るぎない大地のような動き、KARASたちが入り乱れるカオスという表皮を纏った秩序を見せた時の圧倒性、上演時間はあっという間に過ぎていくと共に、私の座っている席から舞台までたかだか1.5mほどの距離にも関わらず、その先にある舞台が聖域のように感じられ、自分が卑小な存在にさえ思え、流れていく作品を汚さないように身動きがとれなくなっていった。振付・美術・照明・衣装さえも勅使川原氏が担当しているとのことで、作品に対する妥協のなさが一貫性を持たせていた。また、一貫性を持たせながらも、要所要所で音のあり方や舞の匂いが全く異なっているので、いたずらに時が、作品が過ぎていくということはない。これらを一言でいうと、「カオスを纏った秩序」というのが作品への印象になるのではないだろうか。変化という意味では、同じような動きをしたとしてもダンサーによって、服の摩擦音、靴と舞台の摩擦音、呼吸音が全くと言っていいほど違うのだ。それは見た目(筋肉、骨格、服装、髪型など)の違いほどは目立たないものなのだが、微かな差異の集積が一人一人のダンサーの特徴付けをしているように思え、1つの作品が出来るまでの僅かな要素の存在性や重要性を見ていた。
 これはどの領域においても同様のことが言えると考えられるのだが、面白いことに、舞台を観ている私に可視化されるのは写真作品としての「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」なのだ。これは、藝術家としての性質の違いを認識させられることでもあり、また、領域の異なる作品を観ても日常と区切られて思考されることがない、ということが社会の中での自分の性質や領域を考察する良い機会でもあった。このことは日常生活の散歩や食事などからも同様のことが言え、一見すると作品とは関係のないことでも、意図せずに作品と結びついてしまうのが、性質だ。また、この性質は人によって異なり、作品と結びつくとしても領域が異なるかもしれないし、藝術・美術とは異なるものに結びつくかもしれなかったり、そもそも日常とは区別して認識したり、冷ややかな目を向けるのかもしれない。これらの差異が個人の性質であり、誰にも肯定されることでもなければ否定されることでもない。ただ、そのままを認めることが大切なのではないだろうか。
 そして、「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観て私は魅了されたのだ。美しい作品だと。私はいつも考えることの1つに「美しいものはただ単に美しい」というのがあるが、まさにその通りの作品であり、これを形容する言葉、修飾する言葉が見つからず、言葉を失う存在があったのだった。
 とても貴重な作品を観た日であると共に、再認することができた日でもあり、そんな日を送らせてくれた友人に感謝している。

原稿作成日:3.30.09(mon)

これに公にしても平気なことで書き足せることは、これから控えているある人との二人展だ。
僕は昨日の舞台を観ているときに写真作品が視えていたのだが、もうひとつ進むと、その二人展が視えていた。
会場の視察も済んでいないにもかかわらず、僕にははっきりとそれが視えていた。

そしてその後に、目黒川に向かいながらKさんと飲んだビールの味は格別だった。

搬入後、彼と飲み交わすビールの味はどんなものだろうと、楽しみは尽きない。

※エキシポートは批評でも評論でもないので、今後この場に載せるようなことはないと思われます。

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