Archive for 2008

指先の感覚

2008.11.4

今日もかわらず現像。完全暗室下ではなく、ダークバッグに腕をつっこんでフィルムをリールに巻き付けるやり方。完全暗室下で巻き付けると、(実際は見えていないが)見ている感覚があるのだけれども、ダークバックという布が二枚隔たっていると完全に視覚が遮られている。あるのは道具類がこの中にいるという意識と、指先の触覚のみ。しかも量が多い時はLPLのタンクを使用し、それは余計に巻き辛いために、指先への意識の向かわれ方は日常ではありえないほどのものになる。それと一秒に対する感覚も、普段とは段違いの差で高くなり、それは日常にも影響してくる。回ってくるのだ。

(10月24日の内容です)

SAKABA

2008.11.4

創作漬けの日を続けて、昨日、大学の後輩たちの展示を観に行った。そこではただ楽しく、棘がぽろぽろと落ちていくような体験をさせて頂きました。ありがとうございます。

その後、大学時代の友人たちと板橋横丁の酒場で呑み、朝から鼻水がたれていた自分は酒が入るほど症状が悪化し、帰り際、隣のおっさんたちにも心配の言葉を頂いた。その日のメニューにはなかったポテトサラダも急遽作ってもらい、その温かさにいつも助けて頂いている。いつの間にかお酒もおまけしてもらっていたりと、お店のお父さん、お母さんには感涙ものだ。たばこの吸い方にも暗黙のルールがある店よりも、こういう酒場の方が肌に合う。

還元

2008.10.29

創作と支持体の創作。この2作品を同時に発表できたらなぁと思いつつ、どちらの方が「俺っぽい」と言われるのだろうかと考えてみる。どちらも作者は俺で、それは変わらないはずなのに、鑑賞者は作品と作者を関係づけようと働きかけてくる。当たり前といえば当たり前のことだけれども、少し歯痒い気持ちになる。その歯痒さの原因は、作者は作品への単なる媒体でしかない、と考えているにも関わらず、作品を作者へ還元して解釈されるからだろう。とても当然のことのようにも思えるけれども、どこかずれている気がするのだ。

細胞

2008.10.23

昨日撮影したものを現像。2ヶ月振りの現像、しかもプロセス上のことでは久しぶりの動きだったので心配だったけれども、撮影同様、「はじめるか」と身体のスウィッチを入れると身体中の細胞が一斉に目覚める感覚になる。その感覚たちからは「遅ぇよ」と罵倒されるのだが、やはり、闘うことになる。身体の中にある意識とは別の、「あるものたち」が動き回ることになる。先日知った、「南方曼荼羅」の図が思い浮かんだ。「萃点」という言葉の意味が、展示や作品などに関係してくる動きのように受け取れた。どうやらこれからの重要な考えになりそうだ。

ここ2、3日頻繁にかけているのはRe-Trickの『Colors of Agenda』とunkieの『too many secrets』。どちらもインストゥルメンタルのバンドだが、異なるタイプの音楽で、シャッフルしてかけていると別個で聴く時よりも違ったうまみが表れるので、色々と美味しい。

漸く曼荼羅関係の本を読み終え、考察がまとまりそうなので、先日買ったものが読める。原研哉さんの『白』、中村桂子さん対談集『ゲノムの見る夢』、『ニュートン別冊ー再生医療への道を切り開く iPS細胞 人工多能性幹細胞』、そして波平恵美子さん/塚本やすしさん『いのちってなんだろう』。最後のは児童用の本で同名のものを探していたら、先にこちらを見つけ間違いに気付かないまま立ち読みしていたら、途中で間違いに気付いたのだけれども内容がよかったので買いました。こういうことが生じるのが、生物の特徴なのだろうな、と思いつつ、本屋で泣くと店員さんが心配してくるのが少々申し訳ないです、と感じた、昨日のお話。

Happosyu dayo !!!

2008.10.20

出力ばかりで一日が終ってしまった。黙々とやってしまうので、気付いたら外が暗いです、という状態に陥っている。その間、菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール、Tokyo Zawinul Bach、toe、The Birthdayがシャッフループされてかかっていた。unkieの2ndが発売されるとのことで、けっこう楽しみだ。

今読んでいる著書は、それほど重要というか要になるようなことが書かれていないかもしれないと予測される。こんな時には速読が役に立つ。

「発泡酒はもう飲まない」と決めていたが、この前の飲み会から何本か発泡酒を飲んでいる。やはりビールが一番です。小学校時代に作っていた「肉天」という豚肉の天ぷらが食べたくなるが、どうやって作っていたかを覚えていないのが悔やまれる。幼いときの記憶は断片的であったり、他者からの話から記憶として誤認している事柄があったりと実は曖昧である。もしかしたらそれは、今でもそうなのかもしれず、「実体」というものの定義とその掴み方を意識する必要がある。「実際に掴む」とはどういうことなのか? その問いは「現実」や「現実感」というものにも繋がってくる問いなのだろう。では、「意識する」とはどうだろうか? それは「思う」ではなく、「考える」ということであり、創作前にも必要になってくると考えられる。