Archive for the ‘体の健康’ Category

怒りを抱かないと、退屈になる?

2019.10.20

気づいたことがあります。
最近のぼくは怒りを持っていない。
怒りを持っていないと、平和になります。
けれど、平和になると、退屈です。
これに気がつきました。
オーマイガ。
 
そうすると、退屈な物事を引き寄せることに気がつきました。
再びオーマイガ。
 
こうなると、原因を探りたくなるのが、人間の性というかぼくの性分です。
すると、ひとつのことが分かってきました。
怒りを持っていたときは、がむしゃらに生きていた。
努力を惜しまないし、人と闘うことも避けないし、勝ち取ることが好きだった。
協力することやコラボレーションも好きだった。
今は、そのどれもが面倒臭いとは言わないまでも、自分からはじめようとは思わなくなっています。
こうなる時系列と、怒りを持たなくなる時系列が、まったく被っていたのです。
 
もうひとつ被っていたのが、運動をしなくなったこと。
筋トレとランニングの頻度が下がり、負荷の軽い運動になり、ストレッチだけになり、腰痛ケアのためのストレッチだけになり、今は何もしなくなりました。
覚えている感覚として、筋トレやランニングをしていた頃は、これらをしていると「怒り」を感じていたということ。
だから、運動をしている最中は、自分を鼓舞していました。
悪く言えば、自分を罵倒しながら運動していたのです。
今は、それがまったくありません。
 
どっちがいいのかは今のところわかりませんが、退屈を感じているのなら、また運動をはじめようかと思っています。
とりあえず、昨日はちょっとやりました。
続くのかな〜。

天候のこと。

2019.10.12

今年の9月から英語を習っているのですが、11日の土曜日は休講となりました。
ま、いま日本に来ている台風です。
金曜日は夕飯の買出しでスーパーに行ったら、買い溜めなのか商品が届いていないのかは分かりませんが、棚に陳列されているはずの商品が、かなりなくなっていました。
震災のときとまではいかないけれど、卵も肉もなくなっていて、試しに惣菜パンのコーナーを見たら、やっぱり品切れでした。
いや、いいんですけど、「備えあれば憂いなし」と言うけれど、「そんなにかい」とも思うわけで。
停電は大変だったみたいだし、「もしも自分の地域で起きたら…」とも心配したのかもしれませんが、もうちょっと泰然としているとかできないですかねー。
少なくとも、仮に想定している災害が起きたとして、「自分たちは買い溜めしたから良かったね〜」と言いながら、ぬくぬく生活できるのでしょうか。
いや、そうしたいから、買い溜めをするのかな。
ま、商品が届いていないだけかもしれないけれど。
 

話は変わり、11月にドイツを訪れる予定なのですが、現地で着る服を、どうしようか迷っています。
「1ヶ月ほど日本よりも気温が低いこと」は、調べていて知っているのですが、なかなか予想を立てられなかったのです。
そもそも、12月にどれだけ着込んでいるかとか、どの上着を着ていたかなんて、覚えていませんから。
だから、夏には相当悩んでいたのですが、今頃になって、朝、日陰を歩いていると予想がついてくるのです。
37年間経験していることなのに、忘れていることもあるんですよね。
忘れるから悩むんですが、忘れるからまた楽しいこともあるわけです。
秋刀魚の美味しさとか、焼き芋の美味しさとか、おでんの美味しさとか、覚えているようで忘れているから、また食べたくなるんです。
思い出してくるというのは、徐々に輪郭が形作られてくること。
完成された輪郭を思い出すのではなく、おぼろげな部分があるから、また楽しみになるんだ。

おいしいご飯は、運を引き寄せる。

2019.10.6

外食での「おいしい」とか「まずい」とかってあるでしょう。
初めて訪れるお店では、どんなに口コミを丹念に見ても、そのお店で自分が食べる料理が自分にとって「おいしい」か「まずい」かは、誰にもわかりません。
今日は、何がおいしいか、まずいかは置いといて、ひとつ気がついたことがあります。
 
それは、「おいしいものを食べれたときは、運が向いている」ということです。
 
スピリチュアルかどうかは知りませんが、調子が悪いときほど、外食でまずいものを引き寄せてしまいます。
引き寄せるというのは、博打的な言い方をすると、引き当てるとも言えるでしょう。
運が向いていないときは、悪いものを引き寄せてしまい、当たりくじを引き当てられない代わりに、ハズレくじを引き当ててしまいます。
例えば、行こうと思っていた店舗が臨時休業だったりと、無駄足をさせられたり、食事関係でなくても、つまらない話を聞かされたり、行く先々で騒音に悩まされたり、失礼な態度をされたり、普段はしないようなミスをしたり、ミスを重ねられたり、数え上げたらキリがないほど、重なるときは重なるものです。
こういうときに外食をすると、心の底から「おいしい」と言える料理と出会えないことがほとんどです。
仮に、自炊をしても、イライラしていたりするので、味付けが普段よりもしょっぱかったり、味のピントが外れていたりします。
つまり、自分の状況がまずいときというのは、食べるものも、まずいものを引き寄せてしまうんです。
 
そんなとき、ぼくがするのは、「必ずおいしいものを食べる」ということ。
当たりくじを引き寄せられない状況にあるのなら、どんなに小さな当たりだとしても、高い確率で当たりくじを引き当てられるところに行きます。
金曜日はまさにそんな状況だったのですが、おいしいハンバーグを必ず提供してくれるお店に行き、ちょっとだけ運を引き寄せる方向に、自分を持って行きました。
 
前菜にクリーミードレッシングがかかった卵付きサラダ。
メインは濃厚デミグラスソースのハンバーグに、付け合わせがほくほくベイクドポテトと、バターが香るインゲンのグラッセ。
食後に自家製デザート二種の盛合せと、生クリーム入りのアイスコーヒー。
 
ぼくの中で鉄板のランチです。
味を知っているのにも関わらず、食べながら、思わずうっとりと目を閉じちゃいました。
それぐらい、当たりを引き当てていなかったのです。
このランチを平らげて、家に戻り、仕事を進め、就寝すると、お客から嬉しいメールが届いていました。
やっぱりね、おいしいものを食べるのって、「引き寄せる」ことでもあります。

得ることを、失ったのだ。

2019.9.27

不思議だ。
自分も含めて、人は誰から言われずとも、自分のことをおっさんと呼ぶようになる。
じいさんや、ばあさんも同じだ。
 
このことについて考えていると、「失う経験」と「得る経験」のバランスが変わる瞬間が関わっているような気がしている。
昔から相談を受けるタイプだったが、年齢を重ねるにつれて、回答の仕方や回答しているときのイメージが変化している。
昔の回答方法は、自分の意見や考えを100パーセント話す感じだ。
それが今では、「この場合なら、こう。こうであれば、こう」というように、事象についての対応を話すような感じになり、理由を問われたら「人間って、そういうものだから」という回答になる。
 
ここから分かるのは、自分の視点から、他者の視点になっていること。
自分の視点を持っていた者が、他者の視点が手に入った後、何を手に入れるのか。
実は、ほとんどないのだ。
慌てることもほとんどなくなったし、何かがあったからといって、どうかなるわけでもないことも十分わかってしまった。
落ち着きを得たことで、慌てるを得ることも、落胆を得ることもなくなったのだ。
得ることを、失ったのだ。
人の相談を聞いていると、「この人は、まだ得るものが多いんだな」と思うようになった。
それと、「あぁ、この段階なんだな」とも思うようになった。
 
考えながら動くことが増えるにつれて、瞬発的な筋肉動作ができなくなっていく。
簡単に背中を痛めるし、活動力が減っていく。
動けなくなる前に、落ち着くための経験値を積み重ねることができて、あぁ、よかった、と思う。
今、30代を迎えた人がいるのなら、「動けなくなることを想像して、その時にできることを今のうちから身につけ始めるといいかもね」と、アドバイスするかもね。

『人生をしまう時間(とき)』を観て。

2019.9.24

『人生をしまう時間(とき)』という映画を観に行った。
 
綺麗なケースを映像にしているのだろう。
観ながら考えていたのは、当の本人と家族の抱いている希望と願望の形。
今や、どこで死ぬかは、それまでの間、誰にお世話になるかでもある。
そして、お世話になる人が当の本人よりも遠くになればなるほど、お金がかかる。
医療保険でまかなえる部分もあるけど。
 
死ぬ場所を自分で選んだケースもあるだろうし、家族が選んだケースもあるだろう。
互いに慮っているにも関わらず、それで大変なことになっていることもあるだろう。
動けなくなっても、願望を持ち、それを言うことはできる。
動けなくなった人の発する願望は、周りの人を動かすし、動かしてしまう。
 
映画の中で、ハッと気づいたのは、「病気には、良くなるものと、良くならないものがある」ということ。
当たり前のことだが、この線引きの判断がつくのは医師だ。
良くなる病気なのか、良くならない病気なのかを判断するための知見が、ぼくらにはない。
だから、良くならない病気の人を前にしても、回復するとどこかで思ってしまう。
でも、良くならないのなら、最後までの時間を、出来るだけ苦しくなく、つらくなく、穏やかに過ごしたいし、過ごさせてあげたい、そういう意志が見えた。
 
そう、これは、ぼく自身が思っていることでもある。
入院児童だったぼくは、身動きできない状態で、誰かに看病されることが苦しみとなる。
「よく頑張ったね」とも言われたくないし、「頑張って」とも言われたくない。
動けなくなったら、苦しまずに、楽に死にたいと日頃から思っている。
だから、動けなくなった人を前にして、言えることは「穏やかでよかったね」ぐらい。
そう見えなかったら、何も言わないようにしている。
 
そして、こう思うのは当事者であるぼくなのだ。
だから、他の人が当事者となったら、やはり「どうしたいか」と尋ねるだろう。
その上で、「他の人の命の時間を奪う」ような選択肢以外なら、協力するんだろう。
生きるということは、苦しみやつらさを味わうために、生きているんじゃないんだから。
動ける人も、動けなくなった人も、その点は同じだ。
穏やかに笑いたい。