『人生をしまう時間(とき)』を観て。

2019.9.24おすすめ, 体の健康, 日々のこと

『人生をしまう時間(とき)』という映画を観に行った。
 
綺麗なケースを映像にしているのだろう。
観ながら考えていたのは、当の本人と家族の抱いている希望と願望の形。
今や、どこで死ぬかは、それまでの間、誰にお世話になるかでもある。
そして、お世話になる人が当の本人よりも遠くになればなるほど、お金がかかる。
医療保険でまかなえる部分もあるけど。
 
死ぬ場所を自分で選んだケースもあるだろうし、家族が選んだケースもあるだろう。
互いに慮っているにも関わらず、それで大変なことになっていることもあるだろう。
動けなくなっても、願望を持ち、それを言うことはできる。
動けなくなった人の発する願望は、周りの人を動かすし、動かしてしまう。
 
映画の中で、ハッと気づいたのは、「病気には、良くなるものと、良くならないものがある」ということ。
当たり前のことだが、この線引きの判断がつくのは医師だ。
良くなる病気なのか、良くならない病気なのかを判断するための知見が、ぼくらにはない。
だから、良くならない病気の人を前にしても、回復するとどこかで思ってしまう。
でも、良くならないのなら、最後までの時間を、出来るだけ苦しくなく、つらくなく、穏やかに過ごしたいし、過ごさせてあげたい、そういう意志が見えた。
 
そう、これは、ぼく自身が思っていることでもある。
入院児童だったぼくは、身動きできない状態で、誰かに看病されることが苦しみとなる。
「よく頑張ったね」とも言われたくないし、「頑張って」とも言われたくない。
動けなくなったら、苦しまずに、楽に死にたいと日頃から思っている。
だから、動けなくなった人を前にして、言えることは「穏やかでよかったね」ぐらい。
そう見えなかったら、何も言わないようにしている。
 
そして、こう思うのは当事者であるぼくなのだ。
だから、他の人が当事者となったら、やはり「どうしたいか」と尋ねるだろう。
その上で、「他の人の命の時間を奪う」ような選択肢以外なら、協力するんだろう。
生きるということは、苦しみやつらさを味わうために、生きているんじゃないんだから。
動ける人も、動けなくなった人も、その点は同じだ。
穏やかに笑いたい。

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