Archive for 2012.3

気付く

2012.3.31

昨日は暖かかった。日の出の時刻が早くなり、次いで暖かくなると自ずと起床時刻も早くなる。今朝は5時台。

けれども、頭だけ先走ったような体は上手く動かなく、家事や運動で意識と体を馴染ませていく。その間、壁に立て掛けてある大判作品が完成なのか、途中なのかを見極めるために眺めていたのだが、どうにも決着がつかず、夕刻にやるものを先にもってきた。その間も作品の方に目をやって確認をしていたら、作品のタイプが違うのかもしれないと感じるようになっていた。「いいな」という度合いや質が一直線に貫くのではなく、何か引っかかるものなのだ。側に寄り添うような…この見極めは大事だとさっき思った。

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パーティは苦手だ

2012.3.30

「THE PHOTO / BOOKS HUB TOKYO 2012」の「PHOTO BOOKS UNION」ブースにてMP1 コンセプトブック(通常版・特別限定版)を販売しています。表参道にお越しの際は、よろしくお願いいたします。

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二元論ではなく

2012.3.27

幼少期の検査の癖が抜けずに風呂上がりに体重を量るのだが、「今日は頭を使っていないな」と思っている時は体重が増えている。毎日、同じようなものを食して似たような生活をしているので、差が出ることといったら頭の使用度だが、それは正直に数値に出てくる。疲れているときは減り、だるい時は増えている。気持ちと体が繋がっている証拠である。

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時間は流れる

2012.3.25

max coffeeを飲みながら午後の制作をして、BGMにラジオが流す流行歌。住居を取り囲む膜により、薄曇りのような日々だが、西日の強烈さだけは工場の布も凌げない。これが書き終わったら、中休みとして散歩に出掛けよう。寒いのか?

 

今月から毎週土曜日に通い始めた歯医者の、歯科助手さんとの会話に和む。近所の歯医者なので、直前まで制作をしてしまい、気が張っているのだが、日常の料理とか、ちょっとしたことについての会話が、仕事からの張っていた時間を緩めてくれる。

 

BGMは既に、ブラジル音楽とフランス音楽を紹介する番組に変わっている。

 

キャベツの千切りをよく買うようになった。日常品以外の買い物は、ほとんどネット注文になった。時間を買うような感覚になる。3〜4週に1度、2時間程度だけ会おうぜ、ってなるような人なんていないわな。自分が楽しくなっちゃうようなことが仕事になることの犠牲って、時間もお金もそこに注いじゃうことだろうね。

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楽しい映画

2012.3.25

J.J. エイブラム監督作「SUPER 8」を観た。製作にスピルバーグさんの名前があり、監督の世代に影響を及ぼしたであろう「未知との遭遇」、「E.T.」に似た雰囲気が随所に漂うが、最初から最後までワクワクしながら観ていた。子どもの頃にはよくあった未知への冒険心と、好奇心から湧き出てくる興奮が、この映画にはあった。僕らは「未知との遭遇」が上映されていた世代ではないが、これらをリアルタイムで映画館で観ていた世代も、当時と同じように楽しめるのではないだろうか? その答えは「冒険する」という好奇心が共通であったはずだからだ。また、好奇心が冷めないような脚本であり、「エンターテイメントっていいな」とも思わせてくれる映画だった。

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気付きの幸せ

2012.3.20

残りの作業を数えていたら、その作業のほとんどが済んでいたことに気付いた。先日、白梅が満開であったことに気付いていたのだが、今朝は紅梅も咲いていたことに気付いた。歯を優しく磨くことが出来なかったが、細密用の筆を扱う感じだと気付いた。日々は無常に過ぎていき、善も悪も愛も憎しみもあるのが当り前だが、些細でも気付きの瞬間は幸せな感じがするものだ。

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不信のコスト

2012.3.18

出掛ける際、とうとう財布と携帯電話のみを持つだけになり、手ぶら生活に拍車がかかっているが、終いには「何も持たない」で出掛けたいものだ。土の上ならそのままで絵が描ける、石があればコンクリートでも絵が描ける。何も持たずとも頭の中で絵が生まれている。十分過ぎる能力だ。防犯の面で気をつけよと言われるが、たしか養老孟司さんの著書で「不信はコストを生む」と書かれていたと思うが、まさにそうだと考えられる。打ち合わせ中にトイレに席を立つ時、テーブルに置いた財布と携帯電話をそのままにして立った方が、無駄な動きがなくトイレに行ける。善悪は人の中にあり、法律で裁けるものではない。ただ、悪事を働けば、その人の中には必ず引け目が生じる。もしも、その人にとって悪事が善事であるならば、どうしようもない。認めるか、復讐者になるかのどちらかだ。

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寒さと雨

2012.3.17

体が重い。精神的な疲れが体を重くしているのか、単に肉体を使い過ぎているのか…ただ、今はまだやることがある。むしろ、こういう時こそのびやかになれたりするものだ。

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海を切る作品

2012.3.15

最近、英語だらけである。英語を聴き、英語を読んでいる。その逆で、英語圏企業の日本語訳を見ていると、笑っちゃうような文章と出会うことができるが、それでも日本人には伝わる。そうみると、壊滅的な英訳でも大丈夫だと勇気が湧いてくる。しかし、話した方がはやい。
 
風になりたい。空気になりたい。水になりたい。体は体の形をし、足は地についている。海。海の作品をつくる。それが答えだ。

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感じ取る

2012.3.10

住居の外壁工事によって、ベランダ越しに作業員が行き来している。そういえば、工事のしおりに「レースのカーテンなどのご使用を勧めます」と書かれていたが、何を隠せばいいのだろうかと疑問に思ってしまったので、普段通りにカーテンを開けて覗けるようにしている。だからといって、作業員は覗いているはずもないだろうが、目が合ったら目挨拶をするだろう。
 
そもそも、日本の住居は隠しすぎではないだろうか? 正確にいえば、遮るものが多過ぎるのだ。狭い国土に狭い住居、それにもかかわらず壁をいくつも設けて部屋を小分けにする。その壁の先は、誰が(何が)どうなっているのかはわからない。古来、襖や屏風などによって遮ることをしていたが、人の気配はあった(はずだ)。それは覗かないことの礼儀と貴さ、そして人がいることの安心感があったはずだが、分厚く硬い壁で閉められてしまえば、その先の気配を感じることは難しいだろう。たとえ、気配を感じたとしても薄過ぎる気配は、不安や苛立ちを生じさせる。単身赴任者の浮気や被介護者の孤独、子どもの不安など、これまで問題とされてきたような事柄が生じるのも、人の安心出来る気配がなくなったのが要因の1つともいえるだろう。また遮られることに慣れてしまえば、他者への配慮と礼儀が欠ける言動が増える一方、知ってもらいたい病やマナー過敏の現象が生じる。
 
これらのことを感じ取っているのかは知らないが、各地で「見える」住居が建てられている。これは、外や住居内から生活の一部が「感じ取られる」ような建物のつくりだそうだ。以前、TVでこのことを知ったとき、「すばらしい」と声に出してしまったほどである。礼節があれば、人に見せるべきものと隠すものの区別はつき、マナーや批判に対してそれほど過敏になる必要もないことはわかるはずだ。そして、礼節は人と接することで培われていくものだ。

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