Archive for 2010.9

眠りの作品

2010.9.26

http://www.drunkafternoon.com/utility/livetalk_01.html

先日のトークイベントをドキュメント化しました・・・しゃべりすぎだ。
ustreamもhttp://www.ustream.tv/recorded/9679126から観ることが出来ます。

 話は変わり、先日、以前お世話になっていたカフェのスタッフさんやお客さんとトレッキング→鍾乳洞に行っていた。トークイベントの翌日ということもあり、早朝起床は辛く、昼食後にうたた寝。川遊びをしている皆の声や、風や木々の声、鳥の声が遠くから交わるように聴こえている中、僕には作品が浮かんでいた。現在手掛けている作品と重なる部分があり、眠りと覚醒の狭間の感覚。その時は何かに囚われるということも、執着することもないのではないだろうか。そこで聴こえる現実とも言えない声、空気が変わる様子。旅の野宿での眠りの感覚とはまた別の感覚だ。

 モデルを公募しようかとも思案中。自分がそのような感覚になったら創作できないもんね。

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見る事

2010.9.26

 昨日、大判出力をさせてもらっていた。させたもらう度に設備が変わっていくので、毎回新鮮。

 僕は大判出力を人に勧めている。それは、自分の未熟さに気付きやすいからであり、必ず、小品を制作する時にも役に立つからだ。出力方向もデフォルトの状態であれば、天地が逆の状態で出力されてくるので、普段とは別の見方が出来ると共に、出力は自動で進んでくれるので見る事に集中することが出来る。絵画でも彫刻でも映像でも、手を動かしながら完成に至るものの場合、「あれもこれも」と欲が出てくる場合があるだろう。つまり、「本当に必要な動きなのだろうか?」という精査がされにくいということだ。しかし、否が応でも見る事をさせられれば、「本当に必要なこと」は自ずと見つかってくるし、確信は得られる。

 「否が応でも・・・」と書いたが、出力されている場に自然と足が向かってしまうのだ。作品のことが気になるし、出力が進んでいくことが興奮するからだ。大判なのだから出力が終るまでに30〜40分以上はかかっているが、夢中になって見てしまう。

 夢中になってしまうからこそ、僕は作品をつくるのだろうし、自動で出力が進むからといって関係のないことをしている人達を見ると疑問に思うとともに作品(?)が不憫になってしまう。

 しかし当たり前の話なのだが、そのような人達の作品を誰かが求めたり、作者が成長するということを僕は見た事がない。僕達は視覚媒体の作品をつくっているのだから、いつでもどこでも見る事が大切になってくるものだろう。

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贅沢な音

2010.9.15

 人々が行き交う中を一緒になって歩いていると、自然の声が聞こえるときがある。

 20歳になった頃、僕は雪国を舐めていて、暖房も何もない無人駅のプレハブ小屋で一夜を過ごすという暴挙にでた。一応、断っておくが、上は5〜6枚、下はズボンも靴下も2枚、冬用の寝袋の中にいたのだが、今思っても、もう2度と陥りたくない状況だ(自ら進んだんだけど)。しかし、そんな状況下で僕は外に出て、今思っても一番贅沢な音を聴いたのだ。それは、雪の音だ。よく物語などで「しんしんと降る」という時の「しんしん」という音だ。体も意識も半分は眠ろうとし、もう半分は眠るのを拒んでいるような状態に降ってきた白い音。それは、あまりにも静かで、あまりにも弱々しいのだが、そっと包み込んでくる。そして、どんなロックバンドよりも、オーケストラよりも雄弁な音の洪水となって、僕を逃そうとしなかった。

 そうこうしている内に電車が来て(いったいどれほどの時間、外にいたのだろう)、僕は電車に乗り込んで車窓から朝日を見ていた。しかし、さっきまで語りかけ続けてくれた声はもういなかった。変わりに朝日が僕の体と意識を深い眠りに導いていったのだった。風の声や光の声を地元で聴き、雪の声をどこだかわからない北の国で聴き、群衆の中で、人ではない自然物の声が聴こえるようになったのはいつの頃からだろうか。


↓エグチマサルホームページの白盤です。

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

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FFLLAATT × drunk afternoon × 明るい部屋

2010.9.12

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/news/news_exhibition.html
http://www.drunkafternoon.com/utility/livetalk_01.html
http://ffllaatt.com/collaboration/da_akaruiheya/

特別企画です。
かなり開けっぴろげに話していく予定です。
打ち合わせ(?!)なんかもしちゃう予定です。
スカし感は全くなしです。
パクれるものがあればパクっちゃっていいです。
コメントは書いちゃったもん勝ちです。

※会場に来ても観る事はできないです。ustreamやドキュメントでみれます。

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白盤更新

2010.9.11

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

トップページ更新しました。正直に言うと、この作品はシリーズになるかはわかりませんし、仮題です。実はさっき一段落ついたところです。

それと、近々(明日?)、大きな告知をします。ご期待ください。

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初対面つづき

2010.9.11

 昨夜、異なる場所で初対面の人達と何度も出会っていた。

 明るい部屋では初対面ではないけれど、古田さんと2人で初めて話をした。いくつか罠にかけようと思って質問をしていたのだけれど、正直な人なのだなと思った。展示は今日までです。正直な展示でした。

 そして、久しぶりに三木さんと会った。三木さんは相変わらずなグッド・スマイルを放ち、「ディーサブ」と言っていたのだが、DVIの仲間だろうと思っていたら、微妙に異なるので、参った。誰か持っていませんか?(重要)
「ディーサブ」を初めて認識したのだった。

 20時の待ち合わせには2時間ほど時間が余ってしまったので、久しぶりに番狂せへ。そしたら先客のナイスミドルな兄さんと公家さんと話をしながら、美味しいお酒とあてで時間を楽しんでいたら、ナイスなおっちゃんと、MJの鈴木勇介さんが途中参加。「MJ」とパッと聞き、「あれ? どこかで聞いたような・・・マイケル・ジョーダン?」と思っていたら、友人も通っているイラストレーターの塾であった。しかも、クラスが同じらしい。公家さん以外、初対面。

 後ろ髪を引かれつつ番狂せを後にし、四谷の飲み会へ。そこでは、便所待ちの時に隣におすわりになっていたナイスガイな方とそれぞれの仕事の話をちょこちょこ。10分くらい。

 昨日はそれだけではあらず、帰宅の電車で眠っていたら、終点で知らない女性が起こしてくれました。一瞬の出来事。そして、世の中は、こんなにも初対面で溢れているのだ、しかし、たった一言、一行為によって、それは全く知らない人じゃなくなるなんて、なんて単純に人は人と出会うのだろう。しかし、その一言や行為がなければ、知らない人のままなのだ。この差は大きいといつも思う。

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本当の挫折がチャンス

2010.9.10

 drunk afternoonの方で「諦める」ということに書かれていたので、僕も「諦める」ということについて書こうと思う。

 以前にも書いたと思われるが、「諦める」は、「諦観」という悟りの1つが語源らしい。そして、諦観は「明らかに真理を観ること」であり、入念に観察し、考えることであった。そして、悟り、世の中の事情にこだわらない態度でいられることとして、「あきらめて、超然となる」ということになる。最初の「明らかにー」が、「あきらめる」になったらしく疑わしいが、まぁ、言葉の響きはそんなものなのだろうなぁ。

 そして、大切になってくるのは諦めることが、他の可能性に気付くチャンスだということだ。現代的な意味での諦める状況というのは、何か挫折があったり、悪いことがあったり、後ろめたいことがあったりする場面と遭遇して生じるものだろう。しかし、先にも書いたが、「入念に観察し、考えて、悟りを開く」のだから、自ずと「何故、そのような状況になったのか」や「自分のどこが悪かったのか」など、環境と自己について考えることになるはずだ。つまり、「今回のような状況では悪い結果になったけれど、○○したら良い結果になるんじゃないか」や「自分はこういう人間なんだな(こういう性質を持っているんだな)」ということを考えつくチャンスなわけだ。

 ということは、本当に諦めて、挫折をしてしまったら、次に行こうと立ち上がることをするのだ。もしも、そのままずるずると進んでしまったのなら、それは本当にショックな出来事だったとは言えないのだろう。そして、どこかで「自分は悪くない」と思い、別の事に諦める理由をなすり付けていないだろうか。

 立ち上がった人間には、けっこう後ろめたい過去があるもんだ。けれども、その度合いが強過ぎたお蔭で(?)、こうして自分のやりたいことをやりながら、自分の役にも他人の役にも立つことができているのだ。

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メンテナンス

2010.9.6

 「人生はあっという間なのだろうな」と、度々思う。今年で28歳になったのだが、実感としては「10歳」ぐらいだ。だから「子どもみたい」と言われると、「ふむふむ、利用しちゃおっかなぁ」なんて愚考が浮かぶのだが、「年寄りみたい」と言われると、「ふむふむ、う〜む」と梅干しの種を食べている時のような雰囲気になってしまう。

 しかし、このどちらも言われてしまい、大抵どちらも評価として言ってもらえることが多いのと、「人間はアンビヴァレンスな生き物だ」と思っているので深くは考えていないのだが、「実年齢っぽいです」と言われたことはほとんどない。

 そして考えてしまうのは、夭折していった人達のことだ。「彼らはいったい、いくつだったのだろうか」という、誰もわからないし、答えのないことを考えてしまう。そして、体の衰えだ。良い作品を作るためには、自ずとメンテナンスが大切になってくるし、体が眠くなったら眠ってしまうように体と精神は繋がっている。残酷にも作品は1つの答えを示すので、良い作品をつくるためには問いと向き合わなければならず、精神と肉体が整っていなければ立ち向かう事は出来ない。

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