Archive for 2020.1

両方大事なこと。

2020.1.16

新しいiMacを買って、今まで使っていたMac Book Proのデータなどを移行しようとしたときのこと。
 
#mac移行アシスタントメモ。
1. 旧mac→新macによる移行アシスタントで、新macのosアップデートを求められて、画面の指示に従ってosアップデートをしても、osアップデートが失敗する場合。
2. 旧macのターゲットディスクモードを解除して、旧macと新macを繋いでいるケーブルを外すと、新macのosアップデートが成功する。
3. 新macのosアップデートが成功したら、旧macと新macをケーブルで繋いで、旧macをターゲットディスクモードにする。
4. すると、macの移行アシスタントを再開できる。
 
#旧macのターゲットディスクモードの解除方法
1. 旧macの電源ボタンを長押しして、旧macの電源を落とす。
2. 旧macと新macを繋いでいるケーブルを外す。
3. 旧macの電源ボタンを押して、旧macを起動する。
 

新しいiMacを買って何に感動しているかって、「ケーブルの少なさ」です。
今更かよ、と自分にツッコミを入れたくもなりますが、デザイン系でラップトップを使っていたら、外部ディスプレイが必要になってくるわけです。
そして、スピーカーがついていないディスプレイを買った日にゃあ、スピーカーも必要になってきますよ。
しかも、外部キーボードは、昔の有線のものを使っていました。
ということは、電源コードも含めると、今まで合計7本のケーブルを使っていたのが、1本になったわけですからね。
そりゃあ、すっきりします。
 

すっきりしたついで(?)ですが、洗濯機も買い替えました。
今までのは、一人暮らしを始めたときに買ったものですから、17年と10ヶ月は使っていたことになります。
途中の12年は外置きでしたから、外装はボロボロになり、洗濯コースのボタンはすべて剥がれていました。
それでも、使えていたんです。
でも、今年に入ってから、洗濯をすると「キキ」って鳴るようになってしまってね、買い替えを決めました。
 
そうしたら、びっくりです。
新しい洗濯機で洗ったら、脱水力が違うのなんのって。
洗濯物が乾くの早いじゃない。
もしかしたら、ちょっと綺麗になってる(?)なんて思ったり。
 

再び、このすっきり流れ(?)ですが、3、4ヶ月ぶりに髪の毛を切りました。
いつも自分で切っているのですが、風呂場でやるもんで、めちゃくちゃ寒いこの時期は億劫になります。
でもね、髪を切って、思いましたよ。
すげー、さっぱりする!
髪の毛って、瘴気(しょうき)を吸うというか、考え事や悩み事、迷った事なんかの搾りかすを吸っていると思います。
だから、仕事の忙しさに翻弄されている人って、髪の毛がぼさぼさになるでしょう。
あれって、頭が瘴気を吸いすぎて、とっちらかっている状態なんですよね。
いや〜、この流れで切ってよかったです。
 

一見すると、全部バラバラのことですが、よ〜く読んでいると同じ内容のことです。
アンティークとは違ったことですが、汚れや疲れが溜まってしまったものは、ちょっとずつ新しくしていく必要があります。
思えば、道具を磨くというのも、表面についた汚れを落としていくことと、栄養を与えることの二つが同時に行われていて、磨くことの積み重ねでアンティークになっていくわけです。
ぼくらは髪の毛を切ったり、爪の手入れをしたり、お風呂に入ったり、栄養のあるご飯を食べたり、感動して心の栄養をとったりして、アンティークに向かっているんです。
新しくしていくことと、年輪を重ねていくこと。
両方大事なことです。

判断基準を事前に持っておく。

2020.1.15

ヒロシさんの『働き方1.9』を読んだことについては以前書きました。
その本の中で、「最悪の状況を想像して天秤にかける」みたいなことが書かれていましたが、ぼく自身も選択肢があるときはこれを行います。
そのときにやっておかなければならないのが、自分にとっての最悪な状況を常日頃から考えておき、その答えを持っておくことです。
 
なぜこんなことをしなきゃならないかというと、選択肢を選んでいるとき、人は自分にとって都合がいいものを選びやすいからです。
そのため、選択肢を与える人がいる場合、大抵は「相手にとって聞こえがいい」ことを言うもんです。
そうして、選ぶ本人は自分にとって都合のいい選択肢を選んでいるつもりでも、実は相手にとって都合がいいものを選ばされていただけだった、ということになるからです。
 
こういうとき、人はよく「騙された」と言うもんですが、ぼくの考えでは、「どちらも悪い」です。
正確に言えば、TPOによって、悪い割合は変化しますが、ただし、大前提としてコミュニケーションにおいて一方的に悪くなる側がいるというのもおかしな話です。
これは何も性善説や性悪説という話ではなくて、相手の話していることを「聞き取り」「解釈」し、「判断」する能力があるかどうか、なのです。
そこで、「自分にはそんな能力がない」と言う人がいたら、それは弱さを売りにしすぎです。
「人は弱く、他の人と協力しあって生きていかなければならない生き物です」という類いの説教とは違う種類の弱さです。
というのも、他の人と協力しあうためには、自分も相手に何かを与えなきゃ「協力しあう」にはなりません。
与えるのがお金であれば「サービス」になりますし、他の人ができないことや苦手なことを肩代わりするのなら「協業」になるでしょう。
仕事であってもなくても、これが協力というものです。
でも、一方的に弱さを売りにして、頼ってばかりいるのは、相手を利用しているだけです。
 
つまり、「騙された」と言う人って、その分、誰かを利用し続けた人が、別の誰かに利用されたということでもあるのです。
 
ぼくも誰かに利用されたという経験はあります。
むしろ、山ほどあります。
仕事で言えば、ヒアリングや初回ミーティングまでして、そのままいなくなる、ということもありました。
事務所に勤務していたときは、当時の社長案件でロゴまで作らされて、そのままバックれられるということもありました(今でも覚えていますが、年末の忙しい時期です。しかも、当時の社長はぼくらに謝罪もしませんでした)。
これが友人であれば、相談だけして、言いたいことだけ言って、ケロっといなくなるなどです。
情報だけ引き出していく、というのはけっこう多いパターンです。
仕事であってもなくても、ぼくのコストがかかっているのです。
これをちゃんとわかっている人って、やっぱり今の日本には少ないです。
けれど、ちゃんとわかっている人って、ちゃんと仕事になるんですよね。
 
ぼくは20代の頃、写真家としてめちゃくちゃな数の展示をしていました。
そのほとんどに来てくれた友人がいるのですが、やっぱりね、そういう人ってちゃんとした仕事を与えてくれたり、ちゃんとした人を紹介してくれるんです。
だから、ぼくはその人の仕事って、誰の仕事よりも優先させます。
全人生をかけていると言ったら大げさだけど、家族ごと面倒をみるつもりです(頼りない自分だけど)。
 
そういう人がいるって、やっぱりね、自分もちゃんとしようと思います。
色んな人に利用されてきたけれど、騙されたというような経験がないのは、相手の話をちゃんと聞いて、解釈して、自分にとっての最悪な状況を元に判断して行動しているからだと思うんです。
その経験をいつもすることで、ちょっとずつこの能力の精度が高まるのです。
ぼくも、強さを手に入れたとはまだまだ言えないですが、弱いままでいいとは思わないです。
強くないと、誰かに協力するなんてできないんですよ。
助けたい人がいるから強くなるとは格好つけすぎだと思うので、「一緒に遊びたい人がいるから強くなる」、そういうことでいいんじゃないでしょうか。

動くことからはじまる。

2020.1.14

経験値ってすごいよなぁ、と度々思います。
経験値によって、人はできることが増えて、不安が減り、動ける範囲が広くなっていく。
どんどん動いていた人ほど、どんどん成長していく、というのは本当だと思います。
それは手足をばたつかせた結果なんです。
部屋に篭って、手足をばたつかせてきた人は、ある一芸が優れるでしょう。
ぼくもそのタイプに近いと思います。
けれども、ただ篭っているだけだと、一芸を披露するのが怖くなります。
 
これは自慢でも何でもなくて、ぼく自身がやってきたのは、ホームページ上でがんがん発表するってことです。
SNSにも作品を投稿したり、こうやって毎日ブログを書いていることも発表です。
これは写真家の頃からやっていました。
気づけば、もう13年になります。
当時の内容を読むと、本当にひどいので、今のお客さんたちはそれを読んでも、「江口さん変わったんだなぁ」とだけ思って、心のうちに留めておいてください。
だって、人は変わりますからね。
 
手足をばたつかせてきたぼくは、世界にも行ったり、デザイン事務所にも勤務したり、世界シェアを誇る企業のデザインを手掛けたり、まったく違う業界の女性と結婚したり、人を育てたり、地方に行ったり、毎日仕事をしています。
だから、一芸があったとしても、披露するのを怖がる暇がありません。
 
それもこれも、毎日危機感があるからです。
怖がることがないのに、危機感があるって、意味がわからない人もいるかもしれません。
けれども、危機感というのは「職業は長く続かない」という危機感です。
 
写真家だけだった頃は、「このままギャラリーとかアートフェアで発表を続けても、業界内で知名度が増えるだけで広がりがないぞ」と思っていましたし、デザイン事務所にいた頃も「このまま労働生産性を改善できなきゃ、まじで死ぬぞ」と思っていたら体を壊しましたし、独立した今も、お客さんに頼りにしてもらいそこそこ稼げていても、このまま老後まで安泰な職業だとは思っていません。
いつも、仕事や環境に対して危機感を感じています。
 
だから、手足をばたつかせては、新しい要素を取り入れてみたり、新しいことを始めてみたりするわけです。
そうやって撒いた種は、すぐに芽は出ないけれど、人から頼ってもらえることは、いつの時代も、1年以上前から動いていたことでした。
どの種が芽が出るかはわからないのです。
人と話していると、「あれ?俺、この人の抱えている問題の解決策を経験しているぞ」と気づくのです。
そこで初めて、「あぁ、あの経験が役立った」となります。
そのためには、いつの時代も、動き続けている必要があるのです。
部屋の中でできることでも、外に出る必要があることでも、いつも動き続けるのです。
 
そうしていると、不安はあっても、不安に押し潰される暇はないんです。
「全部趣味」って言っているぐらいだから、手足を動かして考えて仕事をしているのはとても楽しいです。
いつも、いつの間にか夜になって、「あぁ、お風呂沸かして寝なきゃ」と思って寝ています。
英語の勉強をしたり、デザインをやったり、写真を撮ったり、新しいことの準備をしたり、毎日が動いているし、手足をばたつかせて、動かしているんです。
それが、いつの日かの役立つ経験になるかもしれないってことです。
 
もしも今、不安を抱いているのなら、それは動いていない証拠です。
不安をなくしたいのなら、動きなさい。
これは、自分にも言い聞かせていることです。

単純な能力こそ大事な理由。

2020.1.13

昔のやり方と変えた方がいいものと、変わらないでいいことというのがある。
とても当たり前なはじまりになってしまったが、しばしば思うんだよね。
 
昔のやり方と変えた方がいいと思う代表例は、「あの頃はよかったんだぞ」と言われているようなことだ。
高度経済成長の時代や、バブルの時代をバリバリ働いていた人たちが、当時を懐かしんで、美化して話している内容は、ほとんどが今では通用しないことだ。
むしろ、当時の日本の経済成長の中身を見てみると、まったく低い労働生産性だったことは、周知のことだ。
高度経済成長と言われていた時代も、円とドルとの関係によって、成長が促されたという説だってある。
これを物語るかのように、やはり労働生産性は当時から低いのが日本だったのだ。
今更ぼくが言うことでもないが、GDPは「人口×労働生産性」なのだから、人口が多ければ、自ずとGDPは高くなる。
日本の一億人超えの人口は、世界的に見てもトップクラスの多さなのだ。
 
一方で、昔から変わらないでいいことというのがある。
それは、人間としての能力だ。
だから、正確には「変えようがない」と言った方が適切だ。
マンモスを追いかけていた頃から現代に至るまで、人類の脳味噌は変わっていないと言われているが、そこまで遡らなくても、現代人と呼ばれる人間の能力が変わっているはずもない。
それにも関わらず、現代人は昔の人に比べて、基本的な能力が低くなっているのではないだろうか。
それは、ここ50年ぐらいを見ても言えるだろう。
それは、どの職業においても「単純なこと」をさせてみると、能力の低さがよくわかる。
 
例えば、デザインという仕事で言うと「文字間隔」だ。
現代っぽい文字感覚もあれば、昔っぽい文字間隔というのはある。
だが、大前提として、「ちゃんとしている文字間隔」があるのだ。
それが、できない人が多い。
ぼくらの年代でも、かなりの人数ができない。
 
これは、それを身につけなくても、お金を稼げるようになってしまったということだ。
この代償は、安い仕事が増えているということでもあるのだが。
「ちゃんとしている文字間隔」を現せないデザイナーが増えると、基準となるレベルが下がっていく。
基準値が下がって、生じるのは金銭的価値が下がるということだ。
 
なぜならば、作ることはできないけれど、それがわかる人は「ちゃんとしている文字間隔」を現せる人のお客さんとなる。
すると、お客さんが確保できない「現せないデザイナー」は、わからない人(文字間隔などどうでもいい人)をお客さんにするしかなく、そういう人というのは値段を下げるしかなくなる。
差別化というのは、「ちゃんとした能力」がある人たちによって行われている方法であり、そうではない人たちが利益を上げようとすれば、薄利多売の方法をとるしかなくなる。
そして、数として、デザイナーもお客も、「わからない人たち」が多くなってしまうのだから、下がった基準値が日本産デザインのスタンダードとなっていき、業界全体が薄利多売の方法をとるようになっていく。
工場製品と違って、人の手を動かす業種での薄利多売の方法が先細りなのは目に見えている。
 
何もこれはデザイン業界に限った話ではないと思う。
演劇の舞台でも「ちゃんと立てる人」が少なくなっていると聞いたことがある。
知識は増えているかもしれない。
だが、知識を活かすための、土台となる能力が低ければ、増えた知識が活かされることもない。
頭で何でも解決できると思ったら大間違いだ。
手足を動かしてこそ、「ちゃんとした能力」というのは身に付く。
横着がってちゃいけないよ。

デザイン料金の理由とは。

2020.1.12

まだ詳しくは話せないけれど、進めていることがある。
それに関係することなんだけど、ぼくらの費用が高いと言われる理由はいくつかあるし、諸説ある。
有名な話が、「ピカソと偶然出会った人が、コースターかなんかの裏に似顔絵を頼んだらサッと描いてくれたけれど、請求された金額に驚愕した」って話がある。
そこでは、「1分で描いた絵と他の作品も同じ、私(ピカソ)の作品だ」といった理由が語られている(細かい内容は絶対に違うと思うけれど、それはご勘弁を)。
これと同じような理由に、「培った知識や技能が反映されているから」という理由がある。
ぼくも、これに反対する理由はない。
士業や医師などの専門家に支払うお金が高いのも、そういった専門性に由来しているからだ。
だが、もうひとつ、忘れてはいけない理由がある。
 
それが、コストだ。
ぼくの話では何度も登場するが、人間の営みには「感情」「時間」「お金」「労力」の四点におけるコストが発生する。
そして、この四点のコストと同じ内容のメリットがあり、人間はコストよりもメリットの方が上回らなければ、消耗し、ゆくゆくは過労死となる。
つまり、どんな人でも健康的な人であれば、コストよりもメリットの方が上回った行動をしているわけだ。
 
これを、ぼくらのコストに割り当てていくと、専門家の仕事というのは、素人もしくは自分よりもレベルの低い専門家がお客となる。
そして、ここでのやりとりには、説明が発生する。
塾講師や教師という職業があるように、わからない人が理解できるように説明することは大変な仕事だ。
ましてや、彼らと違って、説明がメインの仕事ではない職業にしてみたら、ひどく面倒臭いことでもあり、これが感情のコストになる。
つまり、説明には感情・時間・労力のコストが発生しており、このコストの合計を、お金のメリットだけで超えなければならないのだから、自ずと費用は高くなる。
そして、不幸にもぼくたちの業界で過労死や体を壊す人が後を絶たないのは、費用も安くなっているのに、コストが増えているからだ。
そう、今の日本のクリエイティブ業界で起きていることは、人間を消耗品として扱う現象だ。
 
業界の話は後日に回すとして、ここまでで費用が高くなる理由には、「専門性」と「コスト」があることがわかっただろう。
そして、専門性はなくすことができない(むしろ経験を積めば積むほど増していく)としても、コストは下げることができることにお気づきだろうか。
コストが増大する原因には「感情」「時間」「労力」が関わっている。
そうであれば、これらのコストを極力減らせば、必要となるメリットも少なくなるということだ(拝金主義のように儲けようと思わなければだが)。
つまり、お客都合の修正や、選り好みさせるための無駄な案をつくることを止め、専門家を信じて任せれば、余分な説明を省略することができる。
費用を高くしているのは、依頼人自身なのだ。
 
実際に、ぼくは独立してから、「この人は嫌いだな」と思う相手とは仕事をしないようにしているし、どうしても見積もりを出さなければならないときは、かなり金額を高くしている。
「この金額でも依頼したかったらどうぞ」という態度なのだが、金額の前に契約書の段階で引き下がっていく(業務委託なのに契約書を交わさないで依頼しようと思っていることがそもそも間違いなのだが)。
けれど、これとは真逆に、自分が好きな相手や、やりたいと思ったことは費用感としては最低金額を設定している。
最低金額というのは、ぼくら夫婦が暮らしていける金額だ。
稼いだ金額は、学びのために使ったり、恩送りとして人に使ったりしている。
 
もちろん、金額の設定は人それぞれで構わないと思うし、考え方も人それぞれで構わないと思う。
だが、お金を払う時に「高いからまけてよ」という人は、自分が撒き散らしているコストを考えてみてはどうだろうか。
ぼくの例はもちろん一例でしかないが、写真でもデザインでも世界的な賞を受賞している人の考え方として、参考にしていただけたら幸いだ。