Archive for 2018.6

小さくも。

2018.6.20

こういうとき、大変なとき、というのは情報というのが難しいと、とても感じます。
適切な情報も、危険を煽る大きな声にかき消されたり。
そして、その場にいない立場の振る舞いも、みな、気にしていると思います。
何かできないか、無関心でいるのがおかしい、自分はこれをした。
傷つけなくていい人たちまで、傷つけてしまったり。
当時も、今も、東京にいる自分ができること、とても些細なことでも、身内にとどけることぐらいかもしれませんが、できることがありますし、普段通りに仕事や日常を過ごすことが、良いこともあります。
そして、良いことがあったら、喜んでもいいはずです。

無駄かもしれない発見。

2018.6.19

6月3日からいっときのように、毎日ブログを更新しています。
すると、書くことの筋肉が蘇ってきます。
「あぁ、こういうことだったな」と。
昔と違うのは、使命感もないし、義務感もないし、冗語(無駄な言葉)も入れてるところでしょうか。
同じタイミングで、人間のよく分からない部分や、理想だけじゃない部分を、好むようになってきています。
「人間だもの」とは、よく言ったものだなぁ。
「素早く」「効率的に」「便利に」「ヒトの意見を尊重して」「うまく連携して」「なんでも言い合えて」が理想の社会のようになりがちだけど、ヒトやヒトビトが、ひとつの問題に「あちゃー」と言ったり、「わーきゃー」するのも、それはそれで楽しいものです。
「何も言わない」のも、熟練教師の温かい愛情だったりします。
こういうことに気づいてくると、誰に言われるでもなく、自分のことを「おっさん」と呼びたくなるものですね。
まったくもって無駄かもしれない、不思議な発見でした。

一本の線。

2018.6.18

いまでも線を一本引くのが怖いときがあります。
余分な線になっていないか、と。
自己保身のための線になっているのでは、と。
線には「境界」「示唆」「装飾」の意味があり、一本の線でもこの意味は変わらないです。
そして、線を使わずとも、余白、文字の強弱だけでも、これらは伝えられることが、ほとんどです。
つまり、いかにして、線を足さずにこれらを伝えられるか。
この能力が、デザイナーの能力を、そのまま表しているようなものです。
無駄に線を足しているときというのは、概して、依頼者への自己保身でしかないのです。
線を足さない。
そういう仕事ぶりが、ぼくは好きです。

お客さんは自転車がほしい。

2018.6.17

企画書を書くときや考え事をするとき、ぼくは図書館や喫茶店や街中で、よく、ボケーっとしています。
ボケーっとしてるといっても、無になることは難しいので、ヒトビトのの動きを見渡しては、「なんで、こう動いているんだろう」と、考えていることが多いです。
観察ってやつですね。
 
漫然と観察をしていると、ヒトのちょっとしたクセだとか、ヒトビトのの会話だとかにも、特有の類型があることに気がつきます。
逃げ道のない狭い場所では、立ち話をしない、とか。
椅子じゃないものにも座る、とか。
柔らかい椅子が揃っていると、ヒトの腰が重くなって、場に漂っている気が淀みやすい、とか。
図書館って、オシャレじゃくても、ヒトに愛される、とか。
 
商品を作るときの警句として、「お客さんは自転車で充分なのに、企業はロケットを買い与えようとする」というのがあります。
数字ばかりを目で追うと、ヒトが本当に欲しいものから逸れてしまう典型例です。
 
色んな企業が、商品開発の会議をしているでしょう。
そのときに、もっとね、自分の言葉で話していいんですよ。
あなたが欲しいものを、作ろうよ。
そうすれば、少なくとも、あなたとあなたに賛同したヒトは、買うでしょ。
そうすれば、少なくとも、あなたとあなたに賛同したヒトは、口コミをしてくれるでしょ。
もっとね、自分の言葉で話していいんですよ。

もっと、もっと、頑張りたい。

2018.6.16

土曜日ぐらい、愛のある話をしたいと思いました。
愛のある話。
 
『土屋耕一のことばの遊び場––回文の愉しみ』を読んでいて、和田誠さんと土屋さんのピースの仕事を読んでいて、ちょっとね、胸がじんわりと熱くなりました。
ピースというのは、たばこの銘柄なんですが、和田さんのイラストレーションと、土屋さんのコピーライティングが、絶妙に掛け合っているんですよね。
それは、当時を知らないぼくでも、後に知ることになる広告です。
伝説的な広告、と言いたい。
 
この一連の広告について、和田さんがコラムで、少しだけ触れているのです。
たった二行の言葉を、楽しみに待っていた、と。
字数の揃ったプロの仕事を、楽しみに待っていた、と。
(コラムの文章はもっと素敵です)
 
プロであること。
プロとプロの掛け合いのような、遊びのような、真剣勝負のような、楽しくも厳しい遊びを、現場を知らないぼくでも想像しちゃいます。
知らないから想像するんですけどね。
 
でもね、勝手なことだけど、こういう話を聴くと、「もう、誰も死なないで欲しい」って身勝手に思っちゃうものです。
素敵な、素敵な仕事振りを、もっと残して欲しいと思っちゃうんです。
もっと、もっと、ぼくも頑張らないといけないなー、と思います。
これは、愛のある話というか、熱い話かもしれませんね。