Archive for 2018

モノを作りたい。

2018.7.14

モノを作りたくなっています。
物体としてのモノね。
概念を作ることに飽きはじめています。
ロゴを作っただけじゃ概念なんですよ。
ロゴが何かに印刷されて、はじめてモノになってるわけです。
 
Tシャツとか手ぬぐいとか。
どちらも大好きなんだよなー。
よく作ってたもんなー。
手ぬぐいで聞かれる「短くなっちゃったんだよー」って、俺の案件で言われねーもん。
たった5〜10cm長くするだけで、使い始めと使い古しの使い勝手は変わらんちゅーの。
 
こういうのって、モノの感覚がないとできないんだよね。
この前も色校を一発で決めちゃったもんねー。
ま、そんな自慢は置いといて、モノを作りたいなー。
 
あ、思い出した。
革靴のオーダメイドをしようと思っていたんだ。
いまはほとんどオーダーメイドやカスタムしてもらっている。
 
お酒のラベルも作りたいし、酒づくりからやりたいなー。
ちゃんと商品になるものを。
やっぱ最後は、食い物を作りたいんだろうねー。
 
この前、友人たちと、「美味いもんっていいよね」と話したばかりです。
体が栄養を吸収している感じがするし、心も満たされるんですよ。
不味いものや無機質なものってね、体に取り入れれば取り入れるほど、体から何かを奪われる感じがするのです。
 
自分だけかと思っていたら、ぼくの周りではこの話が通じるんですよ。
モノはモノでも、美味しいモノを作りたいんだ。
食べ物じゃなくても、目で美味しかったり、手触りが美味しいものとか。
美味しい、美しい、気持ちいいモノをね。

専門家と関わるときのぼく。

2018.7.13

ぼくは専門家と関わるとき、「なるほど」「どちらがいいと思いますか?」「任せます」の三つをよく言います。
専門家と関わるということは、ぼくは素人。
素人が専門家と関わるときには、知識も技術も大きな隔たりがあります。
もしも雑談ではなくて、相談であれば、素人であるぼくには、解決してほしい問題を抱えています。
この問題の解決方法は、目の前にいる専門家の方が詳しいはずです。
 
たとえば、今日(投稿では昨日)、ぼくは内科に行った後に、歯医者の定期検診に行きました。
内科では、以前かかった病院が休みだったので、初めての場所に行きました。
そして、自分の状態は「のどが痛い」。
この、のどの痛みを取ってくれることを依頼しに、病院に行っているわけです。
 
専門家である医者いわく、のどの痛みには風邪の場合と、そうじゃない場合がある。
風邪であればウィルスだから、抗生物質は意味がない。
でも、風邪でなければ意味があるし、ぼくの子供の頃の持病も考慮して、念のため抗生物質を処方してくれました。
のどの痛みひとつをとっても、風邪か風邪じゃないか、のどの痛み以外の症状の有無、持病のことなどを考慮して、処置を決めているのです。
素人のぼくが、あーだこーだ言うところってないですよね。
 
今日のお医者さんは面白いヒトで、抗生物質を処方するかしないかの一瞬の思考回路を、患者であるぼくに説明してくれるのです。
しかも、「ちょっと迷っている」と言いながら思考を話し始めて、持病に菌が入るとまずいから、という理由で念のため処方する結論に至るところまで話してくれました。
 
その間、ぼくは「なるほど」「どちらがいいと思いますか?」「わかりました、任せます」と合いの手を入れながら聞いていました。
おかげで様で、夜になった今では、のどの痛みは軽減されています。
もちろん、その後の歯医者でも同じ言葉を言っています。

戦争とミスマッチな食べ物。

2018.7.12

ぼくらの畑で採れた枝豆を、恋人と食べていて気づきました。
 
「枝豆と戦争は似合わない」
 
塩茹でした枝豆を指でつかんで、口元で上手いこと莢(さや)から豆を出して食べる。
この繰り返し。
この一連の動作を繰り返しながら、相手とする話題に、争い事は似合わないなと。
なんだろう、ちょっと油断している感じでしょうか。
 
ナイフとフォークの食卓では、牽制し合う話題はできそうです。
(映画で出てきますよね)
懐石料理でも、よからなぬことの話題はありそうですね。
(テレビドラマで出てくるやつです)
居酒屋の喧嘩でも、枝豆食べながらっていうのは、似合わないんじゃないかな。
性根の腐ったヒトが、食べ終わった莢を、ヒトに投げることはあるかもしれません。
 
ま、そういうヒトは置いといて、他に枝豆のような食べ物を探してみましたが、なかなか思いつかないんですよね〜。
蟹は黙っちゃうし。
焼き芋が近いかもしれませんが、戦時中の話を聞くと、芋ばかり食べていたらしいので、ヒトによってはその頃を思い出す食べ物かもしれません。
 
やっぱり、枝豆のような、平和な食べ物って他にあるのかな。
あ、プリンも似合わないな〜。
プリンという響きが、戦争とミスマッチ。
こういういことを考えていると、戦争とミスマッチな食べ物を集めてみたくなります。

分かりやすさの弊害は。

2018.7.11

ここ最近、「分かりやすさの弊害」について考えることが多くなりました。
分かりやすさだけで育つと、ヒトはどうなっていくのだろうか。
 
ヒトは面倒臭がりで、ヒトの脳みそは、とても面倒臭がりな生き物です。
つまり、企業の製品やサービスを買うお客さんは、基本的に面倒臭がりなのです。
だから、企業はお客さんに嫌われないように、なんでも分かりやすくします。
簡潔に、言いたいことを述べる表現を推奨されたりね。
 
この最もたるのが、説明的な広告です。
ユーモアとか、培ったセンスだとか、野暮なことを言うと、話術だとかは必要ないです。
 
クスりと笑わせたり、「あ、そうか!」と発見があるような広告って、もうほとんど見なくなりました。
「なんか、いいんだよなぁ」と、とっておきたくなるような広告は、さらに見なくなりました。
「すげぇかっこいい!!」と、思わず盗みたくなるような広告なんて、皆無です。
 
説明的になる一方で、述語的表現も稚拙になっているようなね。
「分かりやすい」と「分かりにくい」だけの判断軸で物事を進めるのなら、機械につくってもらった方が優れているでしょう。
しかも、データによって答えを出そうとするのだから、ヒトが入り込まない方が、いいでしょう。
 
そうすると、人間は問いを出して、売る商材を決めるだけのような気もするけれど、それも自動化する方が的確でしょう。
こうなったとき、「分かりやすさ」ではない要素をヒトに求めるようになるでしょうが、「分かりやすさ」しか鍛えてこなかったのだから、ヒトは何もできなくなります。
 
もしかしたら、違う何かが育つのだろうか。
ユーモアじゃないもの?
それとも、ユーモアの形が変わるのか?
そんなことを、最近考えています。

まとまらないね、話のなかみ。

2018.7.10

一日を通して、次の日のブログを書く時間を確保したり、筆が走るときに走らせちゃっています。
けれども、どうにもこうにも書く時間を確保できなかったり、書くことがまとまらないときもあります。
なーんにも浮かばないっていうときはないんですけどね。
時間が確保できないときは、書き溜めたストックから書いたりね。
 
今日(昨日)は、書くことがまとまらない日でした。
でもね、書けそうなことは、たくさんあるんですよ。
 
「自分の土俵にヒトに上がってもらってばかりいると、自分は成長しないことに気がついた」とか。
「畑の違う区画のおっちゃんが、アメリカでデザイナーをやっていて、いまは悠々自適の生活を日本でしている」とか。
「色んなヒトと連日お会いしているけれど、同業の労働環境の劣悪さは、何も変わっていない」とか。
「最近、出会う年上の方々が、とても素敵」とか。
「茶道教室に見学に行って、とても有意義でした」とか。
「コンビニにいたら、店内をラップで練り歩く青年のような中年と遭遇した話」とか。
「神田屋という魚屋が美味しいらしい」とか。
「相田みつを美術館に行った話」とか。
 
ほらね、いろいろと投稿できそうな話があるでしょう。
でもね、ぜんっぜん、話がまとまらないんですよ。
書き始めはいいんですけどね。
話が尻すぼみになっていく、想像ができちゃうんですよねー。
ちょっと、キレイごとや愚痴の類になっちゃうようなね。
 
もっと短く、書けばいいんですけどね。
と、言いつつ、もうこんだけ書いちゃったよ。
今日は、「話がまとまらないとき」の話でした〜。