Archive for 2015.3

未来ではない話。

2015.3.8

横浜駅近くの首都高と幹線道路を眺めていたら「人類は無意識のうちに自然に戻ろうとしているのでは?」と思った。
 
重力と地形に沿って川が流れているように、都市の引力に導かれて道路を一定の速度で車が流れている姿は、川のそれと大して変わらないように見える。
 
そうであるのならば、生物の進化は止まっておらず、今まさに生まれては進化しているAIを含むテクノロジーは、人類よりも進化した生物となる。 
 
だとすると、人類が他の生物を駆逐し、管理するようになったのと同じように、人類の全てをテクノロジーが支配するようになるだろう。
 
AIが、テクノロジーの世界に不要と判断した人間は駆除され、必要とされた人間のみ生きることが許される。それは愛玩であったり、競走馬であったり、モルモットのようであったりするのだろう。
 
そんな未来がすぐそこまで迫っているように思えて仕方がならない。

没頭できるものと帰る場所。

2015.3.7

生きる理由を見失うときがあった。「何のために生きているのか」わからず、人の中にいる自分、人に求められる自分、自分の行いや存在に価値があるのだろうと思う反面、自分が生きる理由と隔絶されている感覚だ。
 
子どもの頃、それこそ10代はずうぅっとそんな感覚を持っていた。授業中には、窓のサッシにやってくる蜘蛛などの虫の動きを追うか、空を眺めていた。女の人を抱いても抱かれても、それは変わらず、空虚感は増すばかりだった。
 
そんな感覚がどうして薄れたかというと、没頭するものを見つけたことと、最期には一人になれる自然の存在を見つけたからだろう。クリエイティブは人生の全てを司り、自然は自分の帰る場所となった。
 
没頭できるものに正直になれば、使命を見つけることになる。人の中にいても役割は自ずと生まれるが、使命は自分次第で生まれるか生まれないかが変わってくるようだ。その使命を見つけた頃から、大抵のことを許せるようになった。そして、最期に帰る場所のことを思い浮かべては、安らかに笑えるようになっていったのだ。

鳥であれ。

2015.3.1

海の中に潜ることと空を飛ぶこと——どちらをしたいかと聞かれたら、空を飛ぶ方がやりたい。この先にある樹々に止まり、一休みをしながら酒を嗜み、木漏れ日を受けながら昼寝をする。そうした日々が過ぎて肌寒くなり、雪が振る舞えに、高い高い山を越えて暖かな日差しを目指す。辿り着けるかはわからない。傷を持つかもしれない。それでも春の匂いを求めて、飛び続ける。私は、そうありたい。

交代劇。

2015.3.1

昨日、マッサージを受けていると、途中から担当者が変わった。施術後、元の人と話してみると、「手首が痛くなった」ということだった。マッサージ師において、手首を傷めるのは職業病のようで、他にも腕に筋肉がついてしまうなど色々あるようだった。
 
2年ほど通っているお店で、施術中に担当者が変わるというのは初めてのことであり、施術者が変わればマッサージの仕方も変わる。半眠半覚の状態であった僕にとってはここがどこかのか分からなくなり、自分が浮遊しているかのような心地になった。
 
交代劇からの二人の担当者による施術が無事に終わり(?)、待合室に行くと元の担当者が職業病のこと、タイ古式マッサージの流派のことなど色々と話してくれた。
 
その中でも驚いたのは、腕立て伏せならぬ、親指での指立て伏せがあるということだ。格闘技やドラゴンボールの世界だけと思っていた訓練方法が、人を健康にするためのマッサージの世界という真逆とも思える世界にあるのだった。考えてみれば、人が人に触れて健康にしていくということ。恐ろしいパワーを使うだろうし、それをやってくれるのも僕と同じ人間なのだ。身体を傷めることもあるし、調子が悪いときもある。自分の不調を認め、別の担当者に変わる判断をした一人目の担当者、それを引き受けた担当者の連携がとても素晴らしいと思えたのだった。