Archive for 2015.1

エーテル。

2015.1.11

「エーテル」という言葉がしっくりくるときがある。アリストテレスという昔の人が、土、水、火、空気(風)の四元素とは別に、星々の動きを導く要素にエーテルという言葉を用いた。こんな風に言うと何だかよくわからないけれど、僕の場合は、自然現象の結びつきに価値を見出す際に、エーテルという言葉を思い出している。
 
僕は、物事の全ては必ずどこかで繋がっていると考えている。なので、関係ないと思われることでも、話に持ち出すし、実際、繋がっているのだから仕様がない。
 
マッサージを受けていて、半眠半覚の状態で思い浮かべるのも、やはり、広大な宇宙の星々を繋げるエーテルなのだ。それは、宇宙と比べるととてもミクロな僕の体と施術者の手の接点が、僕の心身を健康にしていく繋がりに価値を感じているからだろう。要するに、気持ちがいいと宇宙のことを考えているということだ。

自然である。

2015.1.4

都会で感じる寒さと、自然の中で感じる寒さには大きな違いがある。都会で感じる寒さには、ピリっとさせる心地良さを感じる時もあれば、大抵は良いものとして感じることはない。一方、自然の中で感じる寒さは、体温を奪い、意識を奪い、呼吸を奪うが、その死の匂いがいつの間にか興奮剤となり、「生きている」という暖かな実感を与えてくれる。
 
陽の暖かさ、川の音、陰の奥——全てに目に見えない生き物が潜んでいるかのように、雄弁に語ってくる。そして、「ここがお前の居場所だ」と教えを受ける。
 
木は木を全うし、水は水であることを全うし、陽は陽であることを全うしている。人の気持ちではなく、この体に流れている命の大元が、次の動きを決めている。天があり、地があり、真ん中に自分がいて、作品が出来上がる。天だけでも、地だけでも、自分だけでも、作品は生まれてこない。土を耕し、手を汚し、作品が出来ている。そういう日が近づいてきている。時間を作って、自然の中に潜り込むのだ。

当り前のこと。

2015.1.3

自然の中に入っていました。自然の中に入っていると、丁度いい雑音に落ち着く一方、根っこのところから恐怖のアンテナが立つ。今日も例外ではなく、石ころが落ちてくる音ひとつひとつに、獲物もしくは獲物になる自分の境界線がどこに引かれるのか、注意深くなる。同時に、足を踏み外さないように、全身と地球の接着点に注意をおく。
 
人間社会でのゴタゴタなど、この恐れに比べたら取るに足らないはずなのに、社会の中にいると、それが全てかのような気分になる。とても不自然なことだ。
 
僕らは地震のことを忘れ、戦争のことを忘れ、銃に打たれたら傷を負って死ぬし、火がついたら燃えて死んでしまう。山から転げ落ち、その傷によっては死ぬし、寒さでも死ぬ。そして、人生が終る。
 
僕らは当り前のことを、当り前のように忘れ、欲望の争いで一度でも負けたらそれで死んでしまうかのような錯覚に陥る。錯覚は錯覚だと思い出した上で、何が大事なのか、何がしたいのかを決め、動いた方が強い。このプロセスを経ると、「人はいつ死ぬか分からない」と気付き、同時に、「死んでもやり抜く使命」が見つかる。昔の人は「天命」と上手くいったものだな、と思う。

恒例行事。

2015.1.2

毎年恒例の、姪に遊んでもらいに実家に帰りました。姪の成長ぶりと、僕らの老いぶりが露骨に出てきている。聞けば、今年から小学生になるそうで、ついこの前に生まれたばかりだったと思うのは、大人の時間感覚なのだろう。
 
たしか、展示準備をしている最中に、母親(祖母)から姪が無事に生まれた報告をもらったのだ。その後、僕の持病の経験もあったせいか、風邪をひいたという報告を受けては心配し、アレルギーがあることを聞けばまた心配し、単なる心配性の叔父になっていた。
 
今では、食事中に肘をつくことや、足を組んで座ることを注意されるダメダメな叔父になっているわけだ。それでも、久し振りに会いに行く叔父に喜んでくれ、別れる際にとても悲しそうな表情を浮かべてくれるのは、子どものいない僕への、年一回のちょっとしたご褒美である。
 
この子たちの未来を守りたいのだ。だから、僕は山の中で一人で作品をつくることを、しばしの間、引伸しにしたのだ。この気持ちを、この言葉を、強く再認識するのも、毎年恒例だな。

今年もよろしくお願いいたします。

2015.1.1

昨日の大晦日は、撮影に行ってから友達のお店で年越し、日の出前に家に帰ってきました。深夜も電車が動いていたことに驚く一方、そんな時間帯に一人で移動することの出来る日本の治安に、複雑な気持ちを抱きました。 
 
この治安は、誇っていいものだろうが、移動を支えている電力は必要なのだろうか? 現に移動している最中に疑問を持つのもおかしな話だが、まだ学生だった頃、僕らは始発を待っていた。始発を待つのであれば、それに対応する力を持っていた。
 
頻繁に言われていることですが、便利になれば、その分、人間の力は弱くなっていくのかもしれない。所謂、対応力が減っていくのだろう。
 
昔、大御所のグラフィックデザイナーの文章に、「カンプライター(macがない頃、ラフを、滅茶苦茶上手いカンプの絵に落とし込んでくれる人がいました)に曖昧な注文し、上がってきたものに「違う」という評価をすると、そのカンプライターは、自身の描いたカンプを目の前でやぶき、すぐにやり直しに取り掛かった」という話があったと記憶している(それを経験してからその大御所は、自身の曖昧な注文を戒めた、という続きがあった)。
 
便利になった今、曖昧なまま進めさせようとし、結果的に多くの人の時間・労力・金銭・感情のコストを支払わせることが増えている。それは、子どもの頃の自分と今の自分を比べても同じことがいえ、便利さの裏返しを、今年はひとつひとつクリアーにしていこうと思った。
 
今年もよろしくお願いいたします。