Archive for 2014.5

アクシデント

2014.5.17

現在、マンションの僕らの住んでいる棟のみ断水中。洗濯は途中で止まり、顔は洗っていない。掃除をしている時に止まったので、部屋は綺麗なのに、手は汚れている(はずだ)。しかし、体の汚れ(と思われているもの)を落とすことが、それほど必要なのかという気さえしてくる。
 
これが数日間続けば、風呂の有り難さを感じる。それは旅でとてもよく知ったし、入院の経験からも人間の生活で風呂が必須なのはわかっている。
 
けれども、たった半日〜一日と思えば、そこまで必要ではないだろうと思えてくるのだ。
 
それよりも、断水後に外に出て、偶然出くわした同じ棟の住人達と抱く「不思議な連帯感」を経験することの方が、人間への希望を見出せるのだった。

残す側

2014.5.11

命が生まれて、生き、死ぬ。偶然が重なって生まれては生きて、偶然に死ぬ。そう思えば、自分も人と一緒に生きることに踏み切れるかといえばそうではなく、たとえ死んだとしても、人の想いというのは重くなって残ってしまう。僕らがそうであったように——。
 
単純な話、残された人間は、その想いを加速させて膨らましてしまうのだ。残す側になってしまう可能性が高いのなら、種は早めに積んでおきたくなる。感情に惑わされるなと言い聞かす。

GWに神社を勧められる

2014.5.5

知人に勧められて、日枝神社に行ってきた。風神雷神や仁王像の替わりに、猿が立っていた。どうやら「魔が去る」という意味で「神猿(まさる)」と呼ぶらしい。「遂に俺(マサル)も神になったか」と思ったが、相手は猿だ。人間じゃない。
 
しかし、超人といえば、既に「人間という領域を超えている」という意味もあるのだから、超人を目指すということは、即ち、人間を捨てるということでもある。
 
そんな風にして、ほくそ笑みながら境内を散策していたのだが、とにもかくにも気持ちの良い抜け感がある。高層ビルに囲まれているにもかかわらず、境内に何もかからないようにしているつくりのお蔭か、道中のビル群とのギャップが「気持ちの良さ」に拍車をかける。
 
パワースポットということで勧められ、何のパワーなのかわからないが、とりあえず、気持ちの良い場所だった。
 
 
※トップページの写真を全部とりかえました。

昨夜

2014.5.5

半年振りの友人と、酒を呑んだ。その後、一時間ほどカラオケに行ったのだが、これも数年振りのカラオケだった。モニターはブラウン管から薄型液晶に変わっており、上に乗っかってダイブすることも出来ない時代の変化に、微かな怒りを覚えた。体型こそ変わらずとも、歌うことを忘れている喉と腹は3曲目くらいから声が出なくなり、気持ちの方が逸(はや)っていた。しかしだ、それでも歌い続ける姿を見ていた友人が、「歌っている姿は大学の頃と変わらないな」と言ってくれた。
 
「ワールズエンド」という、酔っ払いが世界を救う映画を直前に見ていたので、「学生時代に成し遂げられなかったバカなことを、中年になって再び挑戦する」という内容が重なった。
 
あの頃成し遂げられなかったこと——考えてみても、思いつかないのは、全速力で生きてきた証拠だろうか。それとも、ただ単に、忘れているだけだろうか。
 
僕はたくさんのことを忘れる。正確には、前意識の引き出しにしまっておくのだ。なので、話途中で「あぁ!」と思い出す。それはたしかに多い。全力においては、大抵のことは全力で臨むようにしているが、歌うことも全力でやってしまうということだ。昨夜気が付いたのは、歌うことばっかりは、後先考えることができないまま、今に至るようだ。あれしか歌っていないのに、今日は喉がガラガラだ。

真実

2014.5.3

マッサージを受けながら、「今日が最後の日だったら何をするだろう」と考えていた。「マッサージを受けている」のだから、「何を」するでもなかろう、とも思ったが、能動的に体を動かすこととして考えるようにしてみた。
 
すると、「写真を撮る」だった。
 
作品のことも、職業のことも全てを放り出して、写真を撮りたいと思った。
 
被写体もカメラも、何でもいいのだ。
 
それが、真実だ。