Archive for 2014

偏見の利用。

2014.8.17

ギルバート・オサリバンの「ALONE AGAIN」がj-waveから流れていた。ノスタルジー特集として流しているらしく、「なるほど」と思った。
 
しかし、不思議なことに、僕らは幼い頃にこの曲をリアルタイムで聴いていたわけではないし、好んで聴いていたわけでもない。ドラマや映画などのノスタルジーを感じさせるような場面で、挿入歌として聴いていたと思うのだ。
 
そんな曲が、世代を超えて「ノスタルジー」という意味合いを共有して聴くことが出来る。すると、「今、格好いい」とは異なる意味合いを持って聴くようになっており、これは偏見の総体でもある。そして、この偏見はドラマや映画などの制作者によって、刷り込まれた偏見だということだ。
 
これが物語っているのは、全ての人工的な感覚は作られ、刷り込まれているものが多いということ。
 
僕らが街中で目にする広告や雑誌、映画、展覧会の作品など全て、人間が作りだした意味の約束事の上で成立している。どんなに新しいと感じたものだったり、アウトサイダーなものだったりしたとしても、ある約束事を誇張したり、約束事のタブーを犯しているだけだったりする。
 
これ、何が言いたいかというと、自分が作ったものが完全なオリジナルと言い張るよりも、今は亡き、多くの先輩達が作りだしてくれた意味合いを、どう使って、どう変えていき、新しい意味合いにしていくか——そう考えた方が楽しいんじゃないのってことです。 

自然の中

2014.8.16

先日、師匠から養老孟司さんの『自分の壁』を勧められて読んでみると、自分が経験していたことが、そのまま書かれているような気分になった。彼の著書は、既に何冊か読んでおり、彼のわかりやすく軽妙な書き方は好きだ。今日の内容は、彼の本に引っ張られている気がしている。
 

 
生きる理由なんて本当はないんじゃないだろうかーーそんな考えが頭をよぎることが多い。自然の中に入り、環境が自分で、自分が環境という境界が曖昧になってくると、特にそう思う。
 
環境の一部として自分がいる一方で、環境を認識している自分がいる。具体的な形として示すと、円の中にポツンと点を打たれている状態だ。この点が自分として、点の意識が曖昧になってくると千里眼のように、見えてない先の景色を見ることができる。正確にいうと、見えている景色の情報から見えていない景色の情報を予測しているのだろう。
 
そうこうしていると、自然の我執のなさに包まれ、「木は木であるだけ」、「土は土であるだけ」、「水は水であるだけ」ということの真っ当さから、生きる理由なんて本当はないんじゃないだろうか、という考えが浮き上がってくるのだ。
 
僕も含め、「○○をしなきゃいけない」だとか「人と合わせなきゃいけない」だとか、たくさんの約束事の中で生きており、そういった約束事が、生きなければいけない理由になっている。
 
つまり、他人同士という環境で決められた義務として、生きることになっている。その反動で、自己決定、自己責任という全てが自分自身しかいないような生き方を目指すようになる。
 
しかし、木や土、水と同じように、僕らはもっと大きなものによって、生きることを決められているのではないだろうか。そんな風にして思うと、本当に自分の為すべきことに気がついたり、温かい気持ちになるのはどうしてだろうか。

普遍の感覚。

2014.8.10

「美しいって何?」と言葉にすると、神との糸が途切れてしまうが、「美しいってあるじゃん」と言うと、神と結ばれていることを実感する。
 
思えば、子どもの頃から、大地からのエネルギーを自分の中を通して、天空へ昇らせ、地球を覆っていく感覚を持っていたが、それは、先述のことだった。昔から、神に愛されていた。
 
焦りが薄らぎ、温かみが包んでいくのがわかりました。たとえ、一人で制作をし、一人で生きていく、そうだとしても、僕は神に守られている。

失敗からのすすめ。

2014.8.10

昨日、誤って過去の記事をひとつ消してしまった。「あっ、しまった」と思う一方、「まぁ、仕方ないか」と諦める気持ちが7割と言った方が当たっている。
 
もしも、全部消えてしまっても、おそらく、同じ気持ちなのかもしれない。そうしたら、同じことを再び行うというよりかは、違うことをはじめそうだ。
 
先のことが引き金になったのか、昨夜、急に余分なものを処分したくなり、これまで以上に処分を始めた。体と心以外は、もう、何もいらないのかもしれない。
 
そして、さっき、ふと気が付いた。
 
美しいと感じたり、美味しいと感じたり、セックスをしたいと思ったりすることがなくなっている。

普遍から外れている普通

2014.8.9

いつから「未来」を見るようになってしまったのだろうか。子どもが将来に夢を見るのとは違い、僕らは現実的な目測としての未来を見る。
 
当り前なのはわかっているが、何か行事があれば、計画を立てる。すると、建設的な未来を見ることになる。「行事→計画」の回数は、年を重ねるごとに増えていき、規模も大きくなり、お金、人数、時間も増えていく。そして、勝ち負けが生まれ、勝っていく。勝者になる喜び、恍惚、カタルシスという麻薬を体感していく。想いが強い者が勝ち、想いが強い者がとことん粘り、調べ上げ、説得ができ、物や関係性、システムを作ることができる。想いが強いというのは、四六時中、仕事をしていることになる。人といるとずっと、こんな生活をしている。
 
並行して、自分の日常でさえも、計画的になっていく。今でもそうだ、新居を探していたが、歯医者に通うことになり、今の住居から離れることや諸々の手続き変更から歯医者を変えることの面倒臭さによって、新居探しは延期した。携帯電話やPCの買い替えも、おおよそ知られている次に発表されるものと比べてからになる。 
 
全てが予定調和になる一方、予定調和に進まなかった場合は、スケジュールが縮まることになっている。この縮まりをクリアーしても、満天の星空のような自分を遥かに超えた美しさと出会えることもなく、「その後の展開の、このタイミングで直していこう」という打算的な出会いになる。 
 
今日死ぬかもしれない絶対的平等性——これを忘れている生き方をしていると、感動が薄らいでいく。命を対価として支払っている感覚がないのだ。