Archive for 2014

昨日のこと。

2014.9.21

静かに暮らしたい。右の首の付け根が痛むのも手伝って、曇天ゆえの出不精の言い訳を考えている。でも、美味い酒を呑みに出掛けるだろうし、自然と人工物の中間を愛でるだろう。南方熊楠氏の萃点の思想に久し振りに触れて、自分の求めていた場所を思い出した。
 
何をする必要もなく、何処に行く必要もなく、何かを手に入れる必要もない。全ては、天と自分の関係を信じることから始まり、いつでも笑って死ねる自信にて終わる。
 
何を作るのかも藝術の神様によって決められていて、それでいて自由になれる。私が別の人になれば、その人が中心(萃点)となり、四方八方へと別の関係性が生まれる。そうして、全てが繋がり、環境によって自分が作られながら、自分が認識することで環境が生まれることに気付き、それが安心感と祈りの気持ちに変わっていく。

故郷を愛せるか。

2014.9.20

生まれ故郷以外の国や文化、宗教の方が肌に合う——そういうことがあるのは一向に構わないが、肌に合ったもの以外を非難するのはいかがなものだろうか。どうせなら、生まれ故郷に馴染める方が、人間として生まれてはいいものかもしれないが、それさえも本当はどうでもいいことであり、自分と合うものを見つけるか、自分が適応するかのどちらかだ。
 
それにしても、アメリカ、ヨーロッパ、タイ、インドなど、僕ら日本人はどうして日本を愛せないのだろうかと常々疑問に思う。もちろん、僕も日本の年功序列や海外贔屓、変化を恐れる風潮は馴染めない。しかしだ、それを差し引いても、僕は日本を愛している。愛国心やそのために戦争をしようとは思わないが、日本の季節や「をかし」を理解する遺伝子が好きだ。 
 
そして、欧米だろうと、他のアジア圏だろうと、結局は同じ終着点に向かう思想を持っている。それにも気がつけば、他の国を特別に愛でて日本を批判するのではなく、他の国も日本も愛でることができるのではないだろうか。

民族衣装の不思議。

2014.9.15

昨夜、沖縄料理店で呑んでいましたが、店員さんが民族衣装を着ていました。いつ見ても民族衣装は面白いと思います。というのも、どの国の民族衣装もそうですが、機能性は低く思われるような格好であり、仰々しいように見える装飾品を付けています。そして、何故か「美しい」。
 
街中で見かけたら可笑しいのかもしれませんが、TPOに合わせて着ると、環境との相乗効果か、とても美しいように見えるものです。
 
最後まで髪飾りを見つめてしまいましたが、その不思議さは消えませんでした。
 
店内には、他にもお客さんがいたので、民族衣装を着ている姿をボヤ〜っと想像してみたのですが、あまり似合わず、店員さんと比べてみると、店員さんが皆、顔立ちがはっきりしながら頬が健康的にふっくらとしており、全体として健康的なやせ形だと気がつきました。
 
あぁ、そうか。民族衣装には土着的な意味があり、人間にも土着的な遺伝があるので、それが通じていないと、似合った着方は難しいのかもしれない。
 
もしくは、着ていくうちに民族衣装が似合う体になっていくのかもしれないですね。

想像と夢の違い。

2014.9.14

最近、星を見ていないことに気がついた。都心の中にある広場で、川を前にしながらベンチで横になっていた。昼間だったので、星を見ることは叶わないが、夜空を思い浮かべることは出来た。
 
映画を観終わった後、同じ場所に戻ってきて、本当の夜空を見ていたが、星はなかった。
 
想像する力を持つことの良さは、こういう時だ。しかし、一方で、実際に目で見ることの強さには及ばない。どんなに愛おしい人でも、死んでしまい、想像でしか会えないのなら、やはり、ぼんやりしてしまうのだ。
 
唯一違うのは、夢の中で会える場合だ。夢を現実と感じることが出来る体質なので、夢の中で出会う人達は鮮明であり、夢ではない現実では会えない人達も、そこでは生きている。一緒に歩き、おしゃべりをしながら食事をして、仕事をする。そんな日常が、夢の中でも起きている。

あなたはどちらだ。

2014.9.13

クリエイティブの価値が安すぎる——常日頃から、そう思えて仕方がない。よく言っていることだが、僕は「時間・労力・金銭・感情」の4点から、コストとメリットを考えている。各項目で差し引きをし、総合的にメリットの方が高まるように行動を決定しているのだが、気付かないだけで、それは誰でも同じだろう。
 
そして、何故か日本では、金銭を悪と見なしながら、ケチる癖がある(言葉は悪いが、やっていることはそうだろう)。
 
殊にクリエイティブで、依頼者と制作者の間でこのようなことが生じる場合、どちらにも問題があり、依頼者は制作にかかる金額に対して「高い」と感じることが多いようだ。そして、双方が知人であり、友人であると「感情」を売り文句にして依頼をしてくる依頼者が増えてくる。つまり、「0円」だ。
 
クリエイティブを仕事にしていると、必ずと言っていいほど、こういう話がやってくる。
 
「感情に訴えかけて依頼をする(依頼者)→制作(制作者)」
 
物々交換の時代だとしても、成立していないことがわかる。これを続けていれば制作者は餓死することになり、依頼者が殺したことになる。僕も「0円」で制作することはあるが、それは、
 
「感情が動く(制作者)→制作(制作者)」
 
という具合に、感情を自分自身で決定しており、これは至極当然なことである。感情は誰かに決めてもらうことでも、押し付けられるものでもない。どんな場面に遭遇しても、それをどう感じるのかは、自身によるものだ。
 
それでも、「0円依頼」がそこかしこで起きるのは、「考える」ということがとても安いことになっていたり、考えがなくても制作が出来ると思われているのだろう。「考える」ということは、「感情」のコストを支払っているということだ。だから、「感情」をメリットとして依頼をしたとしても、制作で「感情」の部分を使っているのだから、それ以上のメリットである必要がある。つまり、
 
「感情に訴えかけて依頼をする(依頼者)→考えて(感情を使って)制作をする(制作者)」
 
ということであるが、実際には制作に時間・労力・金銭が発生するので、
 
「感情に訴えかけて依頼をする(依頼者)→考えて(感情を使って)制作(時間・労力・金銭を使って)をする(制作者)」
 
ということになり、結果的に、制作者の方がコストを支払う状況になっているのだ。そんな状況をクリアーにする簡便な方法として、金銭が存在しているというのに、依頼者はケチるのだ。
 
そんなんだから、気っ風がいい大人と出会うと、「この人のために何か出来ることはないか」と想い、頑張るのだ。制作者を餓死させる依頼者がいる一方、手助けしたいと思わせてくれる人がいる。気っ風がいい人というのは、こういうところで、強いのだ。