Archive for 2014

ハッピーエンド

2014.3.14

フィクションはハッピーエンドで終らなければならない、と思っている。最近、「報われる」ということについて考えるようになったのだが、死んだ人達のことを考えると、「幸せだったのだろうか」と疑問を抱くことと似ている。若くして亡くなった友人達、寿命や病気、自殺で亡くなった親族達、数えだしたらきりがないがいつも思うのは「幸せだったのか」ということだ。
 
それとは、リンクせずに指針となっていることに「胡蝶の夢」がある。
 
最近、「報われる」ということについて考えるようになり、その言葉を使う頻度が上がってきたせいか、冒頭の「フィクションはハッピーエンドで終らなければならない」という持論がはっきりしたのだった。
 
現実だと思っているものは、蝶が見ている夢かもしれない。そうであれば、この現実はフィクションかもしれず、フィクションならばハッピーエンドで終らなければならない。つまり、亡くなった人達はフィクションの幕を閉じたのだ。それは、ハッピーエンドだったのか——死ぬという、多くの人が最大の苦痛として考えていることを経験しているにも関わらず、その人達は報われたのか——それが、長年抱いていた疑問だったことに気が付いた。
 
結局、死に顔を見て、判断するしかないんだが、いつも会話をすることになる。

2014.3.13

書き溜めたものも使って更新することを始めたら、同じ内容のものがあることに気が付いた。こういうラクをしちゃいけないな、と思う反面、考えを言葉にしすぎているときもあり、それを出していかないと、中身がヘドロのようになる気持ちもある。 
 
だから、適度に体内を出していくことで、流れが澄んでくるのだ。

2014.3.13

カフェでカレーなどを注文すると、ご飯を盛ったプレートに、カレーが入った器を乗せて出てくることがある。すると、器にご飯粒がくっつき、けっこうな量を残すことになってしまう。
 
もちろん、米粒を1つずつ剥がして食べることも出来るだろう。しかし、それをするのだろうか? すると、「何のためにこんな盛りつけをするのだろうか」という疑問が生まれる。
 
「何のために——」
 
それは、自分のやっていることについても考えることだ。僕がつくっているものに、誰が、何が幸せになるんだろうか。自分はどうだろうか。
 
たくさんの疑問が、生まれてくる。

2014.3.11

生きる理由がないというのは何故だろうか。そんな人と出会うと、たくさんのことが疑問になるが、一方で、「自分にはそれほどの理由があるのだろうか」という疑問も生まれる。

作品はつくるが、それが生きる理由になっているかというと、昔ほどそうではなくなっていることに気がつく。

作品をつくることが生きる理由として胸を張って言えていた頃は、「自分がすべて」だった。今でもあながち嘘ではないが、あの頃と違うのは、「関わってくれた人達」のプラスを考えることだろう。

それが良いことなのかはわからないが、いつ死んでも満足できるようにしてるというのは、変わらない。

2014.3.11

久し振りにファインダーを覗いて、カメラを構えて撮ってみたんだけど、下手になっていた。
 
頭の中に見えるものとのギャップ——たとえ、2mm程度の誤差に見えようとも、良い方向でのギャップでない限りは、その誤差は調整できなければならない。
 
しかし、漸く手に入れたマニュアル機だ。これが、藝術の神様が与えてくれたチャンスだと思い、撮影をしていこう。

写真は、facebookの方にアップしました。