Archive for 2014

drunk afternoon更新

2014.6.22

この度、諸事情により、drunkafternoonのURLを、EGUCHIMASAEU.com内に移転しました。
お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。
 
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夢の話

2014.6.21

夢の中で、涙が止まらなかった。薄陽の入る部屋の中で、押入の整理をしていると、古ぼけた黒い箱があった。鉄で出来ている箱なのか、木なのか、紙なのかは覚えていないが、開けてみると、隅の方に粒状化した鉄錆が積もっており、ところどころから、小物が見えた。
 
小物はとても懐かしい気分にさせ、ひとつひとつ見ていると、箱の中に絵はがきがあるのに気が付いた。
 
親父から僕に宛てての手紙だった。
 
そこに書かれている内容は覚えていないが、「航海」というワードがあったような気がしている。手紙を読み始めると、僕は大粒の涙が止まらなくなり、頭の中には海の上で航海しているイメージが出た後、家族全員が次々と思い出された。
 
今思い返してみると、「自由であれ」ということと「後悔をまだ残している」ということだが、フラットな気分でいられるのは、吹っ切れていることでもあるのだな。 

少しの煩悩も空。

2014.6.15

さっき気づいたのだが、「空」にも種類もしくは階層があるのかもしれない。万物へ愛を抱ける状態が今まで出来ていた空だとして、さっき気づいたのは、万物への愛の度合いを若干少なくさせて、少しの煩悩を持っている状態だ。これを一言で表そうとすると、やはり「空」だった。
 
外で昼寝をしていると、隣にあった木を支える綱のようなものに小鳥が止まった。目線からほんの十数センチのところまで小鳥を近くで見たのは初めてのことだ。一枚一枚の羽が重なって模様ができ、これは擬態であるのかもしれない。今、こうして文字を打っていると、先ほどの小鳥だろうか、再び、小鳥が僕の目の前にきた。キーボードで文字を打っている、僕のすぐ目の前を、ピョンピョン跳ねながら横切っていく。
 
優しい気持ちになっているのだが、うっすらと攻撃性の感情が混ざっている状態だ。それにも関わらず、もしくはそんなことお構いなしに、小鳥は近くに来てくれる。この気持ちで仕事が出来たら、こんな気持ちで人と接することが出来たら、社会をもっと美しく見れるのだろうか。
 
手を繋いで歩くカップル、両親の前を走る子ども、寝ている人を注意して回る警備員、記念撮影をする家族連れーーたくさんの人達、それぞれの人生をそれぞれの感情とともに生きている。
 
小鳥がまた寄って来た。
 
この世界を生きる僕を含めた全ての人が、取るに足らないつまらない人かもしれない。しかし、誰もが気付くことが出来るし、変わることが出来る。真ん中に命が戻る瞬間、こんなとき、祈りのような温かな気持ちになっている。
 
「どうして争いが起きるのだろう」
 
そんな疑問も浮かぶが、恐れ、欲望、不信、常識の循環が、心に棘を生んでいるのだ。それらなくして仕事が進むかと言えば、そうではない。しかし、そうまですることの必要があるものだろうか、いや、人口が70億人、日本だけでも1億人を超え、全ての人がある一定程度の生活水準を満たす必要があるという考えの下では、4つの悪徳は不可欠の要素なのかもしれない。
 
ただ、それらを微量にすることは出来るのではないだろうか。少しの不安、少しの欲望、少しの不信、少しの常識によって、コミュニケーションは円滑に進みやすくなる。それらは礼節を覚えさせ、敬意に繋がり、自分を浄める行為へと導く。そういう力も持っているのだ。つまり、100%なくすことは、1%あることを恐れることと同じであり、「許し」がない状態である。
 
微量の煩悩——これを混ぜることも、「空」なのではないだろうか。

優位とは。

2014.6.14

6/7の「意識のこと」を読んでいて、「一見すると別物のように見える私とアナタが、元を辿って行くと、1つの生命に行き着く。」という一文に、性交というのはよく出来ているなと思えた。一見すると別物のように見える、刀と鞘。凸と凹。デコとボコ。それら2つが合わさることで、1つになり(戻り)、別の生命体が宿り、外に出てくるのだから。
 
なんと言えば良いのだろうか。
 
ただ、ここにも何かしらの共通項が必要であり、別物の程度が大きすぎると、それは変態になり、異質となる。すなわち、「人間」という約束事が必要になってくる。
 
2種類の精子を掛け合わせて受精できるのかどうかを調べてみると、「出来ない」ようだった。受精というのは、自然のことなので、それが出来ないということは自然の摂理と反しているということだ。掛け合わせるということ自体が、反しているのだろう。凸と凹であることが自然であって、凸と凸と凹では、収まる場所がなくなるというものだ。
 
つまり、収まるところがないということは、進化も退化もなく、ただ絶滅していくということである。逆説的に話すと、進化も退化もしていくことは自然的であり、絶滅していくことは自然的ではないということになる。しかし、自然の摂理に適合したことが、全てにおいて優位ということではない。

自然以外のものの必要性を問う

2014.6.8

自然以外のものに感動ができなくなっている。服は最低限のものを失礼のないように使い分ける程度、料理も焼くか生かで十分であり、作品に至っては何もしない方が良い。それ故、大きなものへの圧倒的スケール感の方が自然らしい——とここで、「ミメーシス」かと気付く。要は、自然の模倣であり、より自然的であり、自然に行き届かない仮象性によって感動が生まれる。ここで発生する感動が、自然を観た時に感じるのと同種のものなのかどうかは定かではないが、「感動する」という心的作用としては同じだと言える。
 
先ほど、ポートフォリオの整理をしているときに、「ギフトシリーズ」以降の、プリント+ペイントの一連の作品を眺めていた。その時に気付いたのだが、当時、いや今でもそうだと思うのだが、これを批評するための評価軸は、今、どこにも存在していない。以前、飯沢さんとの対談で、学生時代の講評会でこれ(ギフトシリーズ)を見せたときに、全員が何も話せなかったのは、これを批評するための軸を持っていなかったから、というようなことをおっしゃっていたのを思い出した。
 
そう、僕がやっていることに、批評するための軸は、誰も持っていないのだ。僕も含めて、どんな人でも何かを批評する際、自身が培ってきたものでしか話すことは出来ない。境界線を設けて細分化された世界で格差を生み出し、職業を生み出してきた世界において、「境界線をなくす」という思考の上でつくられたものは、ミクスチャーと言うしかないのだった。
 
しかし、どういうことだろう、これらの作品を見て「良い」と感じても、突き抜けるような感動が生まれないのは。それは、どんなに感動してきた他者の作品を見ても同様の状態になっている。メシを食い、セックスをしても、自然の中で昼寝をしているときのような、至極の感動体験がなくなっている。
 
腕を切る者、いたるところに穴を開ける者の気持ちもわからないではない。唯一の自然である肉体を改変し、そこに伴う痛みは自然である。至極の痛みという感動体験を、その者達は抱きたいのだ。薬物を使い、シャーマンとなり、自分以外の超人間的なカミと一体になろうとする行為も、それに近いだろう。
 
外で昼寝をしている時、空はどこまでも続き、地球を超えて、宇宙と1つになっている。宇宙と1つになった中に、自分が溶けている。浮いているのだ。いや、沈んでいるのかもしれない。どちらもわからない状態で、真ん中に自分が、溶けているのだ。溢れてくる涙は、地球の海になり、吐き出す空気は、地球の大気となる。そうして、地球は既に私だったのだ。これ以上の感動体験を、私は誰と何処で共有できるというのだろうか。