少しの煩悩も空。

2014.6.15日々のこと

さっき気づいたのだが、「空」にも種類もしくは階層があるのかもしれない。万物へ愛を抱ける状態が今まで出来ていた空だとして、さっき気づいたのは、万物への愛の度合いを若干少なくさせて、少しの煩悩を持っている状態だ。これを一言で表そうとすると、やはり「空」だった。
 
外で昼寝をしていると、隣にあった木を支える綱のようなものに小鳥が止まった。目線からほんの十数センチのところまで小鳥を近くで見たのは初めてのことだ。一枚一枚の羽が重なって模様ができ、これは擬態であるのかもしれない。今、こうして文字を打っていると、先ほどの小鳥だろうか、再び、小鳥が僕の目の前にきた。キーボードで文字を打っている、僕のすぐ目の前を、ピョンピョン跳ねながら横切っていく。
 
優しい気持ちになっているのだが、うっすらと攻撃性の感情が混ざっている状態だ。それにも関わらず、もしくはそんなことお構いなしに、小鳥は近くに来てくれる。この気持ちで仕事が出来たら、こんな気持ちで人と接することが出来たら、社会をもっと美しく見れるのだろうか。
 
手を繋いで歩くカップル、両親の前を走る子ども、寝ている人を注意して回る警備員、記念撮影をする家族連れーーたくさんの人達、それぞれの人生をそれぞれの感情とともに生きている。
 
小鳥がまた寄って来た。
 
この世界を生きる僕を含めた全ての人が、取るに足らないつまらない人かもしれない。しかし、誰もが気付くことが出来るし、変わることが出来る。真ん中に命が戻る瞬間、こんなとき、祈りのような温かな気持ちになっている。
 
「どうして争いが起きるのだろう」
 
そんな疑問も浮かぶが、恐れ、欲望、不信、常識の循環が、心に棘を生んでいるのだ。それらなくして仕事が進むかと言えば、そうではない。しかし、そうまですることの必要があるものだろうか、いや、人口が70億人、日本だけでも1億人を超え、全ての人がある一定程度の生活水準を満たす必要があるという考えの下では、4つの悪徳は不可欠の要素なのかもしれない。
 
ただ、それらを微量にすることは出来るのではないだろうか。少しの不安、少しの欲望、少しの不信、少しの常識によって、コミュニケーションは円滑に進みやすくなる。それらは礼節を覚えさせ、敬意に繋がり、自分を浄める行為へと導く。そういう力も持っているのだ。つまり、100%なくすことは、1%あることを恐れることと同じであり、「許し」がない状態である。
 
微量の煩悩——これを混ぜることも、「空」なのではないだろうか。

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