Archive for 2013.5

配慮

2013.5.26

作業をしながらテレビを流し聴きしていたら、離婚したタレントさん達がそのことについて話をしていました。
 
昨今の日本では、歯に衣着せぬ話し方や、さばさばとしていることが過大評価されすぎているように、僕は思います。誰かのことを話すのならば、それを聞いた人が、最終的には幸せになれるようなことを言いたいものですよね。
 
そして、上記のことで言えば、悪く話してしまうと「遠慮」がないということです。日本は配慮の国だったと思うんです。僕が大切にしている「粋」ということにおいても、好む場所に行っても長居はせず、楽しんだらサクッと笑顔で別れる——ホストは、たくさんの人と有意義な話をしたいものです。それを理解するのは配慮です。
 
遠慮をしないことが過大評価されすぎると、こういった配慮がなくなってくると思うんです。「仕事だから」や「悪くないから」じゃあ、ちょっと悲しい理由ですよね。
 
粋であることと、遠慮がないことの境目も難しいな〜。

順序

2013.5.25

予想ですが、手紙が普及したとき、会いに行くことの価値が高まったと思うんです。

「大切にされてるんだな」みたいな気持ちが手紙よりも生じやすくなったのではないでしょうか。

それは、電話が普及したときには手紙の価値が高まり、会いに行くことの価値はもっと高まったと思うんですね。また、メールが普及したら電話以前の価値が高まったでしょう。

そして、SNSが普及した現代では、わざわざメールを送ることの価値が高まったような気がしています。

もしも、この順序でSNSの価値が高まるようなことがあるのかもしれませんが、そうしたら常に誰かに自分のあれこれが筒抜けになっている世界かもしれないんですよね。

そこで得られる情報は、ちょっと煙たいかな〜。

赦しの順応性

2013.5.25

順応性というのは凄いなぁ、と最近はよく感心しています。
 
それは、日々の過ごす内容が変わったり、環境が変わったりすることがあっても、生き物は慣れることができます。
 
これが出来ないと、生きるのが辛かったり、生きられなくなったりします。その数が多いと絶滅します。
 
ただ今回は個人の話なのですが、個人の場合は、「順応性と赦し」が大きく関係しているのだと思いました。
 
服従と順応は違うけれど、何かが変わるストレスを赦すことができるか、変えようとするものを赦すことが出来るかどうか、そして、その結果に心がどうしても辛いのならば距離を持つことは大切なのです。
 
ま、僕の場合は「個人あってこその社会」だと考えているので、楽しいかつまらないかで、一緒にいるか離れるかを選らんじゃうんですけどねー。でも、基本だよね。

どちらもね

2013.5.24

「情報を遮断する」ということが、ちょこちょこ流行っていると思うのですが、遮断することも、情報過多も向上を目指しているという点では同じなんですよね。
 
むしろ、悪い方向に進もうとしていても、本人は「悪い=良い」なのだから、良いと思われたことしかないと言えるかもしれません。
 
どうしても刺々しい気持ちが芽生える時は、このことを思い出したりします。なかなか難しいんですけどね〜。

屋上

2013.5.23

実家が一軒家だったせいか、マンションやアパートというと新鮮な気持ちがあったりします。
 
子どもの頃はマンションに住んでいる友人と一緒に屋上へ侵入したものです。
  
けれども、どうあがいても屋上に行くことが出来ないところもあり、何かね、寂しいな〜と思ったりしたものです。
 
屋上のな〜んもないところは、空を眺めたり、風を感じたりするぐらいですが、それで満足できるんです。
 
久しぶりに屋上へ行ってみたくなりました。