Archive for 2012.10

ただ、それだけのことなのではないか?

2012.10.20

作品に懸ける姿勢を誉めていただく時、どうしても気が引ける。好きなこと、自分の核となることに正直になるからこそ、作品を極めたくなるのであり、反面、恣意的であったりと他人に迷惑をかけていることが度々あるはずだ。もちろん、そのことを貶されたら気持ち良くはないが、誉められるほど立派なことでもないはずだ。
 
作品をつくり続け、寿命か何かは知らないが、そのうち死ぬ。ただ、それだけのことなのではないか?

これしかやってこなかったことに気付いた

2012.10.18

経験した事柄の、最初に抱いた気持ちを思い出している。あの楽しさ、あの悲しみ、あの憎しみ、あの怒り……最初というのはどれも小さく、その後に交わってくるもので層になり、大きくなっていく。しかし、どれも同じ俺。帰るべき中心点はどの気持ちでも同じ……作品をつくることが楽しかった。それが、最初の記憶。
 
お金と医療を施され、一人で過ごすことを強いられた中、つくることだけを覚えた。その後、子どもや大人がいる社会に放り出され、馬鹿さ加減を利用し、お金と力を回すことを覚るのと並行して、怒りと憎しみを膨らませ、復讐を計画していた。この時、作品の声は遠ざかっていた。
 
しかし、つくることを続けるような生き方を、要所で選んでおり、幾度となく、救われてきた。そして、毎日つくる生活が始まり、再び作品の声が聞こえるようになった。それから、もう10年以上経っている。作品への、つくることへの、恩返しの時期に入っている。それに気付く頃、最初の気持ちを思い出し、どの気持ちでも全て自分であり、作品であったと感謝している。

作品のように

2012.10.7

目を閉じて歩いたり、走ったりすることが多くなってきた。自分の周りにある空気や五感を、心の底から信じられるような感覚の時に、自然と目をつぶっている。「この心持ちのまま、作品をつくることができたら…」と思い、制作を想定してみる。手を前に出し、下から上へ、上から下へ…大判作品になるが、今週から大判の筆入れを始める予定であることを思い出した。「へへへっ」と口元が緩む。目をつぶり、先ほどの心持ちになり、「俺も作品のようになれたら」とおもう。

さくさく

2012.10.3

更新
 
(黒の作品、昼間の光沢モニターやスマフォだと何が描かれているか全くわからん……)

美味しい名前

2012.10.2

制作、運動、昼寝、瞑想、食事会の組み合わせで日々が過ぎている。人と会うのは週一回ペースに落ち着き、時間がゆっくりと過ぎている。すると、好戦的な性格は影を潜めてくれるので助かる。
 
肩肘張る言葉を飲み込んだり、思い浮かべたりする必要もなく、ポジティブ言語が溢れる場は良い。しかも、ご飯やお酒が美味しいと気分は上々なのだが、名前を覚えるのが苦手なので、時間が経ったときの「何だこりゃ?」は治らない。
 
名前 —— 僕が、(戸籍も含めて)名前を持っている必要もないんだぜ ―― と考えているのも覚えられない要因なのだろうな。作品をつくるのに名前は必要なく、作品が視えるか、作品の声が聞こえるかが重要だ。僕は技術信仰のところがあるが、実際、名前で技術は扱えない。けれども、デザインだとそうもいかないから、名前を覚えられるんだけどね。畢竟、意識の問題なのだろうな。