Archive for 2012.2

海は寒いが、土が暖かい

2012.2.12

Gallery 916へ。樹齢2000年を超えると言われる樹木の写真が巨大な空間と合わさり、展示空間それ自体が屋久島の大地のようだった。
 
「観」を制作していて、小品から大判へ移行する時に再現性を気にしないことが、大判への細密さに引き寄せられ、より強靭な描写になっている。また大判が進むに連れて別の小品が進む——小から大へ、大から小へ。ノイズでもそうだ。ノイズを消しながら、付けていく。消しながら付けて、付けながら消す——±0だ。

寿命

2012.2.7

G/P galleryの展示の搬出も無事に終わり(何故、MP1の祭事は天候不順が多い?)、御来場いただいた方々、カタログをお買い上げの方々、本当にありがとうございました。展示作品「観」はほとんど初お披露目のせいか、僕の作品だと気付かない人もちらほらいたようで……僕にとってもあの作品は興味深く、終着点や性質がわかっているのに冷めること無く、むしろ向上して進められている。これから大判の方に取り掛かるのだが、最近よく思うことがまた頭をよぎった――あと何作品つくれるのだろうか? この体はいつまでもつのだろうか?――それを思う度に焦りが生まれるのだが、焦っても良い作品がつくれるわけではないこともわかっている。焦りは逆効果だ。深呼吸をし、体を、己を認め、また一手ずつ作品を進めていくしかないのだ。

どんま

2012.2.7

ちょっと違うように仕事を進めてみると、普段の時間の無駄遣いにすんなりと気付く。こんな時間にある程度のことが終っているのだが、この時間の使い方に慣れてしまえば、再び怠慢さが出てくるのだろうな。意識を純度の高い状態で無意識化できれば良いのだが、大抵が馴化から怠惰に陥ってしまう。自分も含めて人間ってどうにかできないのだろうか……「今日死んで、明日目覚めるか、目覚めないかの結果は諦める」という意識を持てるのかどうか。そちらの意識の方が、面白いし、性に合っているな。

不快から快へ

2012.2.4

大寒波が日本に襲来していたようで、毎日毎日寒かった。寒いと感じていると、僕の場合はどうしても体に膜が張ったような感覚になってしまい、調子は出ない。少々の寒さならば心身が引き締まる感じがして調子が良いのだが、冬本番の寒さになると先に述べたような状態になってしまう。
 
しかし、先日、死のことを考えながら外を歩いていて、その日に死ぬ(と定義されている状態)平等性、つまり、今日死ぬかもしれないことをいつものように考えていると、体の芯からエネルギーを奪っていく寒さが急に愛おしくなってきたのだった。寒いというのは人の主観だ。その曖昧さが面白いとともに、死を間近に感じることが不快から快へ変化させていく。

そして今日、制作をしていたら「写真って面白いな」と感じていたのだった。